原子力時代における哲学 (犀の教室)
福島第一原発事故の直後には、原発で人類が滅びるという類の「現代思想」がにわかに出てきた。 内田樹氏大澤真幸氏は「原子力は人間のコントロールを超えた」と脅し、恐ろしい破局を予言したが、彼らにとっては残念なことに、福島では1人の死者も出なかった。

本書は大島堅一氏の誤った計算にもとづいて「原発は高い」というが、これだけが論拠だと、原発が安かったら使っていいということになる。そこで反原発派の著者は、原発をやめるべき倫理的な根拠をハイデガーに求める。

1955年の「放下」(Gelassenheit)と題した講演で、ハイデガーは「近い将来、地球上のどの箇所にも原子力発電所が建設されうるに至るでしょう」といって、こう警告する。
我々は、この考えることができないほど大きな原子力を、いったいいかなる仕方で制御し、操縦できるのか。そしてまたいかなる仕方で、この途方もないエネルギーがーー戦争行為によらずともーー突如としてどこかある箇所で檻を破って脱出し、いわば「出奔」し、一切を壊滅に陥れるという危険から人類を守ることができるのか。(強調は引用者)
この「出奔」を著者は原発事故と解釈し、ハイデガーが原発事故を予想していたというのだが、1955年には軽水炉の炉心溶融という概念はなかった。おそらくハイデガーは、広島と長崎の原爆の威力を見て漠然と「これだけのエネルギーが発電所でコントロールできなくなったら大爆発が起こる」ぐらいに考えたのだろう。

しかしこれは間違いだった。福島第一原発事故は原子炉の爆発ではないのだ。核反応は制御棒でコントロールできたが、電源が壊れて冷却水が循環しなくなっために燃料棒が過熱し、水蒸気を外気に逃がしたために放射性物質が外気に出ただけだ。その被害は原爆よりはるかに小さい。

この区別は重要である。誤解している人が多いが、核兵器で何万人も死ぬ原因は、放射能ではなく熱核反応である。広島でも長崎でも、放射能だけで死んだ人はほとんどいない。核兵器と原発事故はまったく違うタイプの危険なのだ。

「自然エネルギー」という疎外論

ハイデガーの技術論は、彼の晩年のもっとも重要な論文である。彼は古代ギリシャのテクネーという概念を近代のテクノロジーと区別し、自然の中の真理を開示することと考える。これは詩や芸術を含み、ギリシャのピュシス(自然)の概念と結びついていた。

ところが近代のテクノロジーはテクネーから乖離し、自然を「挑発」するようになった。そこでは自然は富の生産のために利用される手段であり、その中に真理を見出す学問とは別のものになった――というハイデガーの話は、普通に読むと懐古的なロマン主義だ。

著書もその点を気にして、これは単なる「自然に帰れ」という話ではなく、原子力は人間が自然から「完全に自立する欲望」の表現だという。その根拠として彼が援用するのは、中沢新一氏の「日本人は原発ゼロにして人工光合成で生きるべきだ」という荒唐無稽な話である。

人類の利用しているエネルギーは、化石燃料も再生可能エネルギーも、元をたどれば太陽のエネルギーだが、原子力だけは太陽に依存しない核エネルギーである。それは人間が科学の力で自然を挑発して発見したエネルギーであり、人間が太陽から完全に自立するという傲慢な欲望の表現だという。

しかし太陽のエネルギーも、もとはといえば核融合なのだから、核エネルギーという点では同じだ。これについて著者は、化石燃料は「媒介された核エネルギー」だが、原子力は核エネルギーを直接使う点が違うという。それがどうしたというのか。

これは「自然はいいが人工は悪い」という通俗的エコロジーだが、「自然エネルギー」などというものはない。薪でさえ人工エネルギーであり、人類はまだそれをコントロールできない。今でも世界で毎年数百万人が、薪の大気汚染で死んでいるのだ。それに比べれば、原発事故の被害なんて微々たるものである。

そもそも無垢な自然がテクノロジーで汚染されるというハイデガーの思想は、著者のようなポストモダンが非難してやまない「本質が疎外される」という疎外論である。マルクスが指摘したように、人間の手を通さない自然などというものは存在しないのだ。

本書は「原発に反対する」という目的が最初に決まっていて、その理論武装をしようと苦心惨憺しているが、論理的に突き詰めると反原発運動が成り立たないことを露呈している。