ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書)
即位の礼をきっかけに、皇位後継問題がまた話題になっている。男女同権派が女性・女系天皇も認めるべきだというのに対して、保守派は「男系が日本の伝統だ」と主張する。これは『日本書紀』以降の建て前論としては間違っていないが、現実の天皇家が男系で継承されたとは限らない。

その最大の反例は、天照大神が女神であることだ。皇統が男系なら神話で男系の正統性を語るはずだが、天照大神には性別の記述もない。これは『日本書紀』の出典となった古い層の神話では、男系という思想がなかったことを示唆する。

そもそも5世紀までの日本に「大和朝廷」という統一国家があったわけではなく、複数の王権が並立して戦争していたと考えられる。これを本書はヤマト王権と呼ぶが、その実態は古墳が(宮内庁に管理されて)発掘できないため、よくわからない。

『日本書紀』にも、いろいろな神話が混在している。第10代の崇神天皇にはハツクニシラススメラミコトという名前がつけられている。これは「初めて国を統治した天皇」という意味だが、神武天皇にも同じ名前がつけられている。初代という意味の称号が2回使われたのはなぜだろうか?

天皇家を正統化するために改竄された歴史

それは『日本書紀』が複数の家系の系譜を編集したからだ。その原典は帝紀(天皇家の系譜)とか旧辞(天皇の事績)と呼ばれているが、そういうまとまった書物があったわけではない。大部分は口頭の伝承を話者が暗唱して伝えたもので、そのテキストにも多くの異本があった。

崇神天皇は古い資料にも出てくるので、これを初代とするのが初期の伝承だと考えられる。それより前の神武から開化までの天皇は旧辞がなく、想像上の人物と考えられる。それ以降も崇神天皇は119歳、応神は111歳、仁徳は143歳というありえない寿命で、この時期に複数の王朝が併存し、王位継承をめぐる紛争があったことを暗示している。

実在の人物として疑問がないのは、大化の改新を行った天智天皇の父の継体天皇からで、この時期以降は多くの記録に整合性がある。それ以前は複数の王権が近畿地方の各地にあったと思われ、「河内王権」とか「難波王権」などと呼ばれている。

王権が男系で継承されたというのも『日本書紀』の創作で、天皇家の史実とも一致していない。複数の王家が混在した『古事記』以前の時代には、推古天皇や持統天皇のような女帝は異例の出来事という扱いではなかった。それを『日本書紀』が儒教思想の「男系」で継承したように改竄し、天皇家の支配を正統化したのである。

天照大神や神武天皇が実在しないことは広く知られているが、古代から男系の皇統が存在したというのもフィクションなのだ。7世紀までは多くの王権が離合集散し、所在地も転々と変わった。その家系がつながっているとは限らず、まして男系で継承されたという証拠は(『日本書紀』以外に)ない。

卑弥呼でも知られるように、日本にはもともと女系の伝統が強かった。天皇家だけは男系で継承したことになっているが、実態はかなり違っていたと思われる。平安時代になると実権は藤原氏が握り、そこに代々の天皇が「婿入り」したが、それを皇統譜では男系として記録している。儒教は日本の伝統としては根づかなかったのだ。