興亡の世界史 モンゴル帝国と長いその後 (講談社学術文庫)
グローバリゼーションはヨーロッパが世界を支配した「長い16世紀」に始まった、というのがウォーラーステイン以降のグローバル・ヒストリーだが、ここでは13〜4世紀にユーラシア大陸の大部分を支配したモンゴル帝国が視野に入っていない。

それは短い時代だったが、地域ごとに分断されていたユーラシアを統合する大帝国を形成した。モンゴル帝国が解体した後も、帝国は清・ロシア・オスマンに継承され、それが最終的に消滅したのは第一次大戦後だった。モンゴルはユーラシア大陸をグローバル化し、700年にわたる「アジアの中世」を開始したのだ。

今ではほとんど忘れられたモンゴル人が、これほど短期間に大帝国を築くことができたのは、もともと遊牧民が軍団だったからである。遊牧民は夏には家族が分散して牧畜で暮らし、冬には多くの家族が集まって越冬する。冬の食糧は、秋に農民の土地に侵入して彼らの収穫した作物を略奪する。遊牧民の移動手段だった馬は、農民を殺して作物を持ち去る強力な武器でもあった。
しかし遊牧民には、生産手段がない。モンゴル帝国は人口の大部分を占める農民からの収奪で成り立っていたので、軍事的・政治的には広い範囲を支配したが、各地域の支配には介入せず、3%の間接税を納めれば各民族の自治にまかせた。これがモンゴル帝国が急速に拡大した原因であり、それが急速に崩壊した原因でもあった。

農耕社会は親族集団の集まった部族単位でローカルな共同体をつくるが、遊牧民は行動半径が広く、 もともとグローバルだった。そのダイナミズムは軍事力という形で発揮され、部族ー家族ー個人のピラミッド状構造になっていた。リーダーの指揮のもとに戦う多くの部族の中から最強の部族が生き残り、帝国をつくった。

1206年にチンギス・ハンが王になってモンゴルの多くの部族を統合し、 国家体制と軍事組織を再編した。チンギスはそれまでのような荒削りな軍隊ではなく、敵を研究して計画的に攻撃する戦略をとった。その計画から実行までには2年をかけ、全ての軍勢を集中して一挙に敵を攻略するものだった。このため敵は戦わずして降伏することが多かった。

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「陸のグローバル化」の限界

モンゴルの領土が一挙に拡大した原因は、降伏した相手を殲滅せず、「イルになる」といった場合には同胞として迎え入れたことだ。イルは仲間という意味で、民族は違ってもよく、宗教も自由だった。人口ではモンゴル人がはるかに少数派だったので、このようにゆるやかな支配しかできなかったともいえる。

それまでの王国では人民を支配するのは彼らを兵士として動員することだったが、モンゴルの騎馬部隊に多くの兵士を編入することはできなかったので、モンゴルの支配は貨幣による納税という制度になった。世界史上初めて紙幣を流通させたのはクビライだった。

だが略奪によるグローバル化は、あまり長続きしなかった。モンゴルの軍事力は絶対的に大きなものではなく、各地域もゆるやかに支配していただけなので、 14世紀末に中国を初め各地域で一斉に反乱が起こると、モンゴル帝国はあっけなく崩壊した。

略奪によるグローバル化という意味では、同じ時期のイギリスも海賊によってグローバル化を実現した。そこまでは似ているのだが、違うのはモンゴルが馬による陸のグローバル化だったのに対して、イギリスは船による海のグローバル化だったことだ。

陸のグローバル化には限界があったが、イギリスは新大陸というフロンティアを発見した。北米の資源は豊かで、原住民は中国の農民よりはるかに無力だったので、海賊は富を蓄積して「大英帝国」になった。

イギリスの支配がモンゴルより長く続いたのは、 インドや新大陸から略奪した富を東インド会社のような株式会社に再投資し、資本を蓄積するシステムをつくったためだ。モンゴルには貨幣経済はあったが、資本蓄積はなかった。資本主義は大英帝国の支配を世界に拡大するイノベーションだったのだ。