アジアを救った近代日本史講義 (PHP新書)
1910年の日韓併合は、国際法的には合法だが、実質的には植民地主義といわれてもしょうがない。当時の日本と朝鮮は軍事力にも経済力にも大きな差があり、その力の優位を背景に日本が朝鮮半島を領有する条約を結んだからである。だがそれは奇妙な植民地主義だった。

日本が朝鮮半島に進出しようとした最初のきっかけは征韓論だが、これはヨーロッパの植民地主義とは違う発想だった。明治政府が新政府の樹立にあたって、1870年に李氏朝鮮との修好を求める国書を朝鮮に届けようとしたところ、朝鮮はその受け取りを拒否した。

その理由は、国書に皇上という文字があったことだ。「皇」は中華王朝の皇帝だから、日本の支配者は皇ではなく、朝鮮はその臣下ではないので、国書を受け取ることはできない、というのが朝鮮の主張だった。これに対して明治政府では、西郷隆盛が訪朝して説得すると言い出し、それに大久保利通などの主流派が反対し、これが西郷の下野するきっかけになった。

これは些細な外交文書の字句の問題のようだが、当時の東アジアの秩序のあり方をめぐる論争だった。朝鮮は李朝の伝統だった華夷秩序の概念にもとづいて朝鮮は清の臣下だと考え、日本は秩序の外にある「夷狄」だと考えていた。それに対して華夷秩序の外側にいた日本は、朝鮮のような事大主義の影響を受けていなかったので、ヨーロッパ的な国際法にもとづいて朝鮮と条約を結ぼうとしたのだ。

日韓併合は高価な失敗

それが軍事衝突になったのが日清戦争だが、勝敗はあっけなく決まった。宗主国が滅びようとしている華夷秩序には未来がなく、世界はヨーロッパ諸国が支配する時代になった。特に東アジアで最大の脅威となったのはロシアだった。

イギリスも日英同盟で、日本とともにロシアの脅威から満州朝鮮を守る体制をとった。アメリカは日本がそのフィリピン統治を認めるのと交換条件で、日本の韓国統治を認めた。日韓併合は避けられない選択だった、と著者はいう。

当時の朝鮮には日本との併合を求める「一進会」という団体があった。 歴史家グレゴリー・ヘンダーソンは、これを「自分の民族に対して行われた反民族主義的大衆運動」だと表現した。衰退した清朝か膨張する帝政ロシアか、改革を進める日本かの三択の中で、朝鮮にとって日本はましな選択だった。

しかし日本にとって日韓併合は、高価な投資だった。朝鮮総督府はインフラ整備を進め、日本企業はよくも悪くも採算を無視して朝鮮半島に投資して、韓国の人口は1910年の1313万人から、1942年には2553万人に倍増した。

それが単なる植民地支配ではなかったことは、日本が学校の整備に力を入れたことでもわかる。1910年には100前後しかなかった小学校が、1944年には5213校に増えた。京城帝国大学の創立は、大阪帝大や名古屋帝大より早かった。

本書でも拓殖大学が朝鮮の発展にいかに貢献したかがくわしく書かれているが、こうしたインフラ投資をどうやって回収するつもりだったのだろうか。当時の世界では植民地は永久に領土になると考えられていたので、20年や30年で回収しようとは思っていなかったのだろう。

イギリスの植民地支配は1600年に東インド会社の収益事業として始まり、 大英帝国は300年間に莫大な収益を上げたが、19世紀末に世界を分割した他のヨーロッパ諸国は、その投資を回収する前に植民地を失い、ほとんどが赤字だった。わずか35年で日本が朝鮮半島から収益を上げられるはずがなかった。

日本が華夷秩序に挑戦したのはよかったが、それが崩壊した後どうするのかという戦略がなかった。東アジアに秩序を構築するには日本が国際法秩序の中心になるしかなかったが、それは大失敗に終わった。戦後はアメリカ中心の秩序ができたが、今はまた中国を中心とする「新たな華夷秩序」が構築されようとしているようにもみえる。