中国文明の歴史 (講談社現代新書)
中国を語るとき「漢字文化」とか「漢民族の伝統」という言葉で語るが、そういう文化が 2000年前からあったわけではない。漢字は中国にもともとあった言葉ではなく、古代に中国大陸に集まった多くの民族は、それぞれの口語を使っていた。

漢字はそれとはまったく違う、商人の人工的な共通語だった。もとは取引に使う符号だったので単純で、時制も接続語もなく、感情を表わす言葉がほとんどなかった。複雑な概念を表現するため、漢字を組み合わせて新しい漢字をつくったので、どんどん増えて発音もバラバラになった。

その読み方を統一したのが601年に書かれた『切韻』で、これが科挙の試験に採用された。民族にも身分にも関係なく、すべての男子から官僚を登用する科挙は、教育に大きな影響を与えた。初期の科挙は詩をつくる能力を試すだけだったので、漢字を教える学校がたくさんでき、人々は競って漢字を学んだ。

口語も漢字の文法に合わせて再編され、その組み合わせで表現できるようになった。多くの民族の雑多な言語が漢字で統一され、今の中国語の原型となった。漢民族という概念も、漢字によって生まれた。「中国」という概念はもっと新しく、19世紀にできたものだ。

中国の伝統は意外に新しい

「中華思想」も、1004年に北宋の真宗が契丹に敗北して「澶淵の盟」で二人の皇帝を認めたことに始まる。北宋ももとは遊牧民の子孫だったが、自分たちが「漢人」だと称し、北方の契丹を「夷狄」としてさげすんだのだ。

これが北宋につながる王朝のみを正統とし、異民族の王朝を認めない『資治通鑑』の史観となり、これが日本に輸入され、万世一系の天皇家(南朝)のみを正統とする『神皇正統記』の南朝史観を生んだ。

儒教が国教とされたのは漢代だが、これはその後ほろび、いま知られているような儒教が国家的な体系になったのも宋代である。 朱子学は科挙の受験科目となったため、知識人に必須の教養となり、壮大な学問体系ができた。それを標準化して科挙に採用したのはモンゴル人の元だった。

ただこうした文字や学問は人口の1割にも満たない支配階級の中の話であり、大部分の庶民は口語だけで暮らしていた。中国の王朝は平和と治安を守るだけの「超小さな政府」で、財産権を守る機能もなかったので、人々は親族集団で財産を守るようになった。その宗族も、最近では科挙で選ばれた官僚を中心にできた集団(10世紀以降)と考えられている。

このように中国古来の伝統と考えられている文化も、実はそれほど古いものではない。国家という概念も、19世紀に日本から輸入されたものだ。中国の近代史上最大のインパクトは、アヘン戦争ではなく明治維新だった。

長く夷狄としてバカにしていた日本が、短期間に中国を追い抜いて大国になれたのはなぜか――多くの知識人がその答を求めて日本に留学した。とりわけ梁啓超は、自分に祖国がないことを恥じ、それを中国と名づけた。

1300年にわたって中国のエリートを生み出してきた科挙が廃止され、日本に留学した知識人が新しい指導者になった。目的、権利、義務、法人、主義、人民、共和国などの漢語が日本から輸入され、近代中国の概念になった。「中華人民共和国」はほとんど和製漢語なのだ。

このような歴史は、中国では教えていない。日本人も「中国4000年の伝統」を信じているが、日本が東アジアで果たした役割は意外に大きいのだ。