世界史とつなげて学ぶ 中国全史
香港の問題は混迷を深めているが、これは他人事ではない。中国のGDPは2030年代にアメリカを抜いて世界最大になると予想され、今後は中国との関係が日本の最大の問題になるが、これはアメリカよりはるかに厄介な隣人である。

それが古代から統一された専制国家だったと考えるのは錯覚で、古代国家は城壁で囲まれた都市だった。王朝はローマ帝国のような都市国家連合で、人口のごくわずかしか支配できない「超小さな政府」だった。財産権を守る法律もなかったので、人々は宗族(男系の擬似親族集団)で自分の財産を守った。

「中国」という概念は20世紀にできたもので、それが「漢民族」の国だというのも神話である。古代から中国は、農耕民と遊牧民の戦う多民族国家だった。文明をつくったのは農耕民だが、遊牧民は戦争に強かったので、歴代の王朝には「征服王朝」が多く、農耕民の国家は宋と明ぐらいだった。

日本人にとってヨーロッパがわかりやすいのは、どちらも広い意味の封建社会(中間集団の強い分権的な社会)を通過したからだが、これは世界史の中では例外である。中国では中間集団が宗族しかなく、清代まで古代社会が続いたともいえる。そこにいたのは皇帝と官僚からなるごく少数の「士」と圧倒的多数の「庶」だった。

多民族の連合国家を支配する科挙官僚

その格差は制度的なものではなかった。中国には身分制度はなく、貴族の身分は地域社会で支持されたものだった。それでも唐の時代までは世襲されたが、宋代から本格的に実施された科挙によって、制度的にはすべての男子が官僚になれる「一君万民」の統一国家になった。これが唐宋変革と呼ばれる中国史の最大の区切りである。

実際にはすべての国民が科挙を受験することはできなかったが、官僚の地位が相続できないという原則は厳格に守られたので、地方豪族の自立を防いで国家を統合する効果はあった。これによって漢字の読めるごく少数の「読書人」が多民族の連合国家を支配する体制ができ、それが1000年も続いた。

中国にはモンゴル人や満州人だけでなく、インド人やイラン人も集まり、宗教的にも仏教やゾロアスター教やイスラムなどが交流する文化圏だった。そういう多様性が最大化したのが、モンゴル帝国(元)の時代だった。その後も明代には漢民族が政権を取り戻したが、清代には満州族が支配したので、農耕民の支配した時代は短い。

儒教は農耕民の土着宗教の進化形なので、中国を「儒教文化圏」と呼ぶのは正確ではない。科挙で四書五経の解釈として朱子学が絶対化されるようになったのは元の時代であり、それは「士」だけの世界のものだった。圧倒的多数の「庶」にとっては、儒教も朱子学も読むことさえできなかった。

中国の近代化に大きなインパクトを与えたのは、明治維新で急速な近代化を遂げた日本である。「民主主義」も「共産主義」も日本から輸入した和製漢語だが、儒教も共産主義もキリスト教のように人々の心をとらえる物語がないので、その文化的な基盤は脆弱で、チベットやウイグルは暴力で弾圧しないと統治できない。

香港では「一国二制度」が危機に瀕しているが、中国の歴史は「一国多制度」の歴史であり、西洋的な意味での「国民国家」になることは不可能だ。習近平国家主席の権力を支えているのは経済成長だけであり、それが止まったとき多民族国家としての矛盾が噴出するのは、意外に遠くないかもしれない。