バブル経済事件の深層 (岩波新書)
バブル崩壊は、私の世代の戦争体験のようなものだ。あの前と後で、日本はすっかり変わってしまった。1990年ごろまで世界中が日本の成功を賞賛し、その脅威を恐れていたが、90年代にその評価は180度変わり、日本は嘲笑の対象になった。その原因はバブル崩壊ではなく、その不良債権処理に10年以上かかり、企業が萎縮してしまったことだ。

ではどう処理すればよかったのだろうか。結果論で歴史的なifを議論してもしょうがないが、バブル崩壊や金融危機は、また必ずやってくる。あえて結果論で、当時どうすればよかったか考えてみよう。
本書に出てくる事件を見て気づくのは、銀行が不良債権を処理し始めた時期は意外に早かったということだ。長銀の破綻の原因になったEIEが銀行管理になったのは1990年12月、日債銀が関連ノンバンクの財務内容を調査する「特別スタッフ」を審査室に設けたのは1991年1月である。本書は扱っていないが、イトマン事件で住友銀行の磯田一郎会長が辞任したのは1990年10月だった。

しかし大蔵省や日銀の対応は周回遅れだった。これは当時の政治的な状況ではやむをえない面もあった。何よりも1985年のプラザ合意以降の急速な円高で「円高不況」になり、それを救済するために公定歩合を1986年の4.5%から1987年の2.5%に下げた。金利を下げるのは容易だが、上げるのは政治的に困難だ。財界からも「利上げは円高をまねく」という反対論が強かった。

もう一つ大きな要因は、資産価格が急騰したのに物価がそれほど上がらなかったことだ。80年代後半のインフレ率は年率1%以下で、利上げする状況ではなかった。これは当時は不思議だったが、今となっては説明は簡単である。円高で輸入物価が大幅に下がったのだ。これは1990年代以降のグローバル化の始まりだった。

それでも日銀は、1989年から公定歩合を上げ始めた。当時はそれでも地価や株価はまったく反応せず、日銀はさらに急激に利上げした。公定歩合が6%になったのは1990年8月。これが銀行の資金繰りを悪化させたが、「平成の鬼平」と賞賛された日銀の三重野総裁は最高水準の金利を1年間続けた。

遅まきながら金利を上げたのはよかったが、1990年に資産価格が反転してからも高金利を続け、大蔵省が不動産融資の総量規制までやったのは失敗だった。このときすでにイトマンもEIEも経営が破綻していたので、本来は流動性を供給すべきだったが、利上げと総量規制で融資の蛇口を絞ったので、不動産業者が資金繰りに行き詰まった。

寺村銀行局長の罪

大蔵省も、預金保険法を改正してペイオフを行う改革をすべきだったが、その準備もできていなかった。まして「公的資金」の投入は絶対ありえないというのが、1990年の状況だった。問題が認識され始めたのは1991年8月に尾上縫が逮捕されたころだと思うが、この事件も個人の特異な詐欺事件と思われた。

最後のチャンスは、1992年に住専問題が表面化したときだった。この年8月には三和銀行が日本住宅金融を清算する秘密計画書を出し、宮沢首相が「公的資金の早期投入」に言及したが、経団連は銀行救済に反対した。このときはメインバンクも住専を清算する方針だったが、大蔵省の寺村銀行局長が封印した。これが決定的な失敗だった。

1992年には日銀が「不良債権の損失は40兆円を超える」と推定し、銀行に財政資金を投入して資本増強する案を1993年初めに大蔵省に示したが、大蔵省はそれを拒否した。公的資金が「銀行救済」と見られると世論の批判を浴びるというのが、極端な慎重論者として有名な寺村局長の判断だった。

彼は昭和恐慌の事例を研究し、公的資金を投入するのは銀行が破綻して取り付けが起こり、「預金者保護」として納得しないと無理だという。大蔵省の組織防衛のためには、不良債権処理が遅れてもかまわないという発想だった。これには巨額の財源を必要とする主計局の反対もあったようだ。

ここから逆に考えると、もっと早めに危機が表面化していれば、資本増強するきっかけもつかめたかもしれない。たとえば住友銀行が1990年11月にイトマンを法的整理していれば、不動産市場がいかにひどいことになっているか明らかになり、大蔵省も危機管理に乗り出したかもしれない。

結果的にはイトマンも住専もメインバンクの処理にゆだねたので、体力のあった住友は乗り切れたが、他の銀行は処理できなくなった。それが政治問題になったのが、そこから3年たった1996年初めの「住専国会」の騒動だった。預金者保護でないと公的資金は投入できないという寺村氏の判断は、ある意味では正しかったのだ。

バブルは2度崩壊する

そして不良債権が「爆発」したきっかけが、97年11月の三洋証券の破綻処理だった。破綻そのものは大した事件ではなかったが、それにともなってインターバンクで10億円の債務不履行が発生し、危ない銀行が短期資金を取れなくなった。その影響で拓銀がつぶれ、富士銀行が融資を打ち切った山一証券が廃業して、金融危機が発生した。

つまりバブルは2度崩壊したのだ。1990年からの相場下落は不可抗力だったと思うが、1998年からの金融危機は避けることができた。遅くとも1992年には不良債権が日本経済を破壊する規模の問題だということは大蔵省もわかっていたのだから、破綻処理案を真剣に検討すべきだった。

これを教訓として考えると、今の日本は「国債バブル」というべき状況にあるが、これ自体は日銀が買い支えることができる。問題は、マイナス金利で低収益にあえぐ銀行(特に地方銀行)の経営である。地銀は外債投資を拡大しているが、これは大幅な円高が起こると資産が崩壊するおそれがある。

1990年代の経験からいえるのは、早めに資本増強して決済システムを守るということにつきる。地価や株価が下がっても大した問題はないが、銀行経営が悪化すると取り付けが起こり、金融システムが崩壊する。これを防ぐためには「モラルハザード」を恐れず、資本増強するしかない。