NHKの番組で「天皇の母親は3人を除いて側室だった」と報じたのをきっかけに、また「男系天皇」をめぐる論議が盛り上がっている。保守系の人は産経新聞のように「女性宮家に皇位継承資格を与えたら126代にわたり例外なく続いてきた男系継承の伝統」が絶えるというが、これはフィクションである。

皇室典範で天皇を「男系男子」に限ると定めたのは明治時代で、それ以前には明文の定めがない。「事実として男系が続いてきた」ともいえない。中国では皇帝の正統性を守るために後宮に出入りする男を去勢する宦官があったが、日本にはなかった。後宮は物理的に隔離されていなかったので一般男性も出入りできたから、天皇の側室が産んだ子が天皇の子であるかどうかはわからない。

中国の皇帝をまねた日本になぜ宦官がなかったのかについては諸説あるが、基本的には天皇の血統をそれほど厳格に守る必要がなかったからだろう。男系の皇統というのは儒教思想だが、日本の「家」は女系だった。古代には天皇も「婿入り」することが多く、平安時代の天皇は「藤原氏の婿」だった。男系天皇というのは明治以降の「近代の制度」であって、日本古来の伝統ではないのだ。

婿入りは日本的な能力主義

古代の日本が女系だったのは、女性が尊重されたからではなく、親族を中心とする社会だったからだ。中国では10世紀ごろ親族集団が崩壊して人々がすべて流動する社会になったが、日本ではローカルな親族集団が残ったので、狩猟や戦争で流動的な男より、妊娠や育児で家にいる女性が中心になったのだ。

親族を超える国家ができると能力主義の官僚機構が生まれるが、日本ではその必要がなかった。それが日本に科挙が輸入されなかった最大の理由だろう。宦官は科挙の官僚を補完する庶務担当だったので、日本には必要なかった。

日本の家が「婿入り」で継続したのは日本的な能力主義で、血縁にとらわれずに働き者の男をリーダーにし、女系で土地が相続された。それが近世には農地が家ごとに分割されて小家族になり、農業の生産性が上がった。

しかし武家では世襲原理が続いたため、生産性が低下した。戦争には規模の経済が大きいので、ヨーロッパでは大規模な主権国家が生まれたが、日本の「国家」は全国に300近くも分立していた。この時期に侵略を受けたら、日本はあっというまに植民地になっていただろう。

天皇はキリスト教の代用品

江戸時代の後期には、石高と結びついた土地の面積が生産物に対応しなくなり、長州や薩摩のように軍事力を強化した藩が強くなった。このように生産力の源泉が土地から人的資本に変化したことに対応した改革が明治維新だった。

ここでは世襲は全面的に否定され、800年ぐらい遅れて科挙に似た官僚制度が導入された。これは中国にならって「天皇の官吏」を選抜する制度だった。科挙に対応するのは郡県制だが、明治時代には地方制度も中央集権に改めた。

これが人材の流動化をもたらし、近代以降の日本の生産性は飛躍的に上昇した。その梃子になったのが天皇だが、それはほとんどの国民にとってなじみのない存在だったので、伊藤博文は明治憲法でこれを制度化した。彼は天皇を中心にすえる目的を次のように述べた。
欧州に於ては憲法政治の萌せる事千余年、独り人民の此制度に習熟せるのみならす、又宗教なる者ありて之か機軸を為し、深く人心に浸潤して、人心此に帰一せり。然るに我国に在ては宗教なる者其力微弱にして、一も国家の機軸たるへきものなし。[…]我国に在て機軸とすへきは、独り皇室あるのみ
伊藤には、天皇は近代国家の「機軸」となる「宗教」すなわちキリスト教の代用品だという明確な目的意識があった。この点では、天皇はヨーロッパの国王よりローマ法王に近い。それが今も(一部の人の)信仰の対象になっているという意味では宗教に近いので、政府が介入しないで天皇家にまかせたほうがいいのではないか。