AI vs. 教科書が読めない子どもたち
人工知能(AI)のブームは、今まで2度あった。1950年代に始まった「第1次ブーム」はすぐ挫折したが、80年代の「第2次ブーム」では世界中で巨額の投資が行われた。そのトップランナーが、通産省の第5世代コンピュータだったが、成果は何も出なかった。今は「第3次ブーム」だが、第2次ブームを同時代に見た私には既視感がある。投資を集めるために、プロジェクト・リーダーがAIの成果や将来性を誇大に語ることだ。

著者は東大入試をロボットに解かせることを目標にした「東ロボくん」というAI開発のリーダーで、これは「MARCHレベルの大学入試に合格するところまで行った」という。しかし東ロボくんは、インターネットのデータを大量にマシンに入力し、その「丸暗記」した知識を検索しているだけだ。

ただ著者はAIの将来性には懐疑的で、コンピュータが人間の知能を超える「シンギュラリティ」は今後とも来ないという。その理由としてあげているフレーム問題や「意味が理解できない」などの問題は昔から指摘されているAIの本質的な限界だ。

これを突破する革命的なイノベーションが起こらない限り、AIが意思決定や自己意識のような「知能」をもつ日は来ない。いまAIと呼ばれているのは深層学習の応用技術で、これは機械学習の改良版にすぎない。

「常識」という難関が超えられない

技術的には、第5世代コンピュータと今のAIには大きな違いがある。第5世代は大型コンピュータで論理型言語(Prolog)を使い、自然言語をアルゴリズムで理解しようとした。このために最適のハードウェアを設計し、OSも新たに設計した。

このモデルになっていたのはチョムスキーの生成文法だが、コンピュータに実装するとすぐ行き詰まった。例外処理が多すぎるのだ。文法で論理的に分析できるのは文章のごく一部で、ほとんどの文は常識で補わないと理解できない。たとえば
テーブルの上に水の入ったコップがあります。それを取ってください
という文の「それ」とは何か。それがテーブルでも水でもないというのは子供でもわかるが、コンピュータにはわからない。それを理解するには「テーブルを取るには大きな力がいる」とか「水は液体なので取ることができない」といった常識(フレーム)が膨大に必要で、これは論理では導けない。

こうして1990年代にアルゴリズム的なAIは挫折したが、そのあと出てきたのが機械学習だった。これはコンピュータに無数の文を入力し、常識を覚え込ませようというものだ。そのためには多くの文の中から常識を抽出するシステムが必要になる。これは従来のノイマン型コンピュータとは違うニューラルネットだった。

これがAIの歴史上最大のイノベーションで、今の「深層学習」も90年代の技術である。日本でも通産省が「リアルワールド・コンピューティング」として国策プロジェクトを始めたが、うまく行かなかった。インターネットの普及していなかった当時は、学習するデータが限られていたからだ。

AIは所得格差を拡大する

今のAIはインターネットを使って「ビッグ・データ」を利用できる点が最大の違いだ。コンピュータの性能も飛躍的に上がり、かつて大型コンピュータでやっていた処理は、今のスマホでもできる。東ロボくんも150億の英文を記憶したという。

それでもセンター試験の英語や国語の問題は惨敗だった。それは入試の問題文のような「模範的な文章」が世の中にほとんどないからだ。驚いたことに深層学習の成績は、既存の手法より悪かったという。それが東ロボくんが東大入試にチャレンジするのをあきらめた原因だった。

著者は事務労働が「AI技術」に置き換えられてホワイトカラーが大量に失業する「AI世界恐慌」がやってくるというが、これは錯覚だ。どんな人にも比較優位があるので、労働市場が機能すれば仕事はなくならない。

ただ雇用が製造業から対人サービス業にシフトし、コンピュータを使うエリートとそれに代替される「教科書が読めない子どもたち」の所得格差が開くおそれがある。これ自体は避けることができないので、所得再分配が必要になろう。AIは雇用問題ではなく、所得分配の問題なのだ。