リスク(期待値)の定義は「被害(ハザード)×確率」だが、この考え方は直感になじまないので、小泉元首相にもわからない。普通の人々は確率なんか考えないからだ。彼が「プリントアウトしていつも手帳にはさんで持ち歩いている」という大飯原発3・4号機の再稼働を差し止めた福井地裁の判決は印象的である。
被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。
ここではリスクと便益を比較する計算そのものを拒否し、確率も考えないで最大の被害を最小化することだけが問題になっている。これは経済学でいうとミニマックス原理で、不合理な行動ではない。命の危険が迫ったとき恐怖を感じないで確率を計算するような人は、進化の過程で攻撃されたり捕食されたりして淘汰されただろう。

だから人々の心の中には、この判決のような「命は金より大事だ」というレトリックに共鳴する感情があると思われる。個人にとって死は最大の問題なのでこれは当然だが、大きな社会では困ったことになる。交通事故や老人医療を考えればわかるように、命と金のトレードオフは日常的に発生しているので、そこにミニマックス原理を適用すると、命を救うために無限の金を注ぎ込めという話になる。
ミニマックス原理は、不合理な行動ではない。これはフォン・ノイマンが最初にゲーム理論を定式化したとき、「相手が最善の行動をとった場合の損害を最小化する」方法として証明したものだ。進化の中でも、環境が最悪になった場合の被害を最小化することは合理的である。

しかし集団の全員がミニマックス原理で行動すると、だれもが変化を避けて逃げるようになる。このような「ハト派」だけの保守的な集団は攻撃に弱いので、集団の規模が大きくなると利己的な「タカ派」とのトレードオフが重要になる。ミニマックス原理は個人としては合理的だが、集団としては必ずしもそうではない。弱者のためにすべての資源を注ぎ込むような集団は滅亡してしまうのだ。

特に戦争では、誰の命を救って誰を犠牲にするかというトレードオフの中で選択することが司令官の仕事である。日本人がミニマックス原理に弱いのは、こういうトレードオフに直面した経験が少ないからだろう。日本軍は、すべての部隊で犠牲を出さないように戦って壊滅した。小泉氏が首相のとき戦争になったら「命は金より大事だから降伏しよう」というのだろうか。