原子力をめぐる誤解の最大の原因は、リスクが確率的な期待値だということを理解できない人が多いことだ。リスク(期待値)=ハザード(被害)×確率である。原発事故のハザードは大きいが、あなたがそれに遭遇する確率は低いので、原発事故で死ぬリスクは、戦後60万人以上が死んだ交通事故よりはるかに小さい。これは自明だが、小林よしのり氏から河野太郎氏まで、リスクの意味を理解できない人が多い。

なぜこんなにリスクを理解できない人が多いのか、という問題は自明ではない。その原因は、人間が恐怖という感情でリスク管理をしているからだろう。あなたが道を歩いていて、工事中のビルから大きな棒が落ちてきたら、それが何か確認しないで、とっさによけることが正しい。それが鉄筋だったら、死ぬこともあるからだ。他方、逃げて損するコストは小さい。落ちてきたのがボール紙だったとわかっても、笑い話ですむ。

だから恐怖は反射的に起こる感情で、理性的な計算を介さない。そういう恐怖をもたない人間は、進化の中でとっくに淘汰されたはずだ。つまり「ゼロリスク」を求める恐怖は合理的な感情であり、それはすべての人にそなわっている。他方で確率を計算できる人は1%もいないので、すべての人のもつ恐怖にアピールするマスコミは正しいのだ。

社会的確率と個人的確率

リスクを期待値で評価することに対して「確率は主観的だから当てにならない」という反論があるが、原理的にはすべての確率は主観的だ。物理現象で客観的確率が存在するようにみえるのは、母集団の数が非常に大きいと理論値に近づく「大数の法則」と、集合平均が時間平均に収斂する「エルゴード性」によるものだが、どちらも数学的な仮定にすぎない。

よく出てくるのが「交通事故の確率はわかるが原発事故の確率はわからない」という話だが、この区別は相対的なものだ。交通事故の死者は、日本社会全体でみると1日10人程度で予想できるが、あなたがあす自動車にひかれて死ぬかどうかは予想できない。

「原発事故は一度起こったら取り返しがつかない」という議論も同じだ。あなたが交通事故で死んだら、あなたの人生は取り返しがつかない。被害者が多いという意味なら、交通事故のほうがはるかに被害者が多い。マスコミが報道しないだけだ。

つまり確率は、社会の立場で考えるか個人の立場で考えるかに依存するのだ。社会全体で考えた確率を社会的確率と呼ぶと、期待効用最大化理論のいうように統計的な期待値を基準にして行動することが最適だが、個人にとっては最悪の場合にどうなるかが大事なので、統計なんて関係なくリスク回避的な行動をとる。

これを個人的確率と呼ぶと、これは不合理な行動ではなく、意思決定理論でいうMinMax原理(最大の損失を最小化する)に近い。進化の過程で、人間はこうした「速い思考」を身につけてきたので、個人が「安心」を求めることは合理的だが、社会全体として「ゼロリスク」を求めることは不合理だ。

リスク管理の「合成の誤謬」

たとえば交通事故をゼロにするには自動車を禁止すればいいが、それは政治的に不可能だ。原発をゼロにすることは可能だが、化石燃料が増えて社会的コストは増える。

集計の方法としてデモクラシーは頼りにならない。政治家やマスコミの行動を決めるのは、個人的確率にもとづく感情だから、個人の最適化行動を集計しても社会的に最適にならない合成の誤謬が起こるのだ。

社会的確率と個人的確率というのは私の造語だが、両者の中間の立場もありうる。これは行動経済学でいうフレームなので、その設定でリスクは変わる。そこでタレブが提案しているのは、なるべく柔軟にフレームを変えられる制度にすることだ。

エネルギー政策でいえば、特定のエネルギーがいいか悪いかを政治が決めるのではなく、炭素税のような技術中立な基準をつくり、それに従ってフレームを決める。そのコストは社会的確率で決めるが、意思決定では個人的確率にも配慮する。人々が感情で行動するという事実を計算に入れた制度設計が必要である。