来年1月からのアゴラ読書塾は「感情の科学」というテーマだが、人間を動かすのが理性を超える感情だという思想は新しいものではない。マルクスは意識を超える「イデオロギー」が人間を動かすと考え、フロイトは意識を超える「無意識」が人間を動かすと考えた。こういう二元論は20世紀の思想に大きな影響を与え、構造主義やポストモダンにも受け継がれている。

ドゥルーズ=ガタリはフロイト的な発想で資本主義を精神分析し、「欲望機械」としてのグローバル資本主義が国家を破壊すると考えた。彼らは非合理的な感情を「コード化」して抑圧するのが国家であり、それをイノベーションで破壊して「脱コード化」する資本主義との矛盾が分裂病(統合失調症)をもたらすと主張した。

しかし最近の脳科学が示すのは、逆に感情が人格を統一し、理性をコントロールしているということだ。感情をつかさどる機能を失った患者は対人関係が崩壊し、支離滅裂な言動を繰り返すようになる。その知的能力が保たれていても、社会人としての生活ができなくなる。「私は私である」という同一性を維持しているのが感情なのだ。

「無意識」という神話

人間の同一性を支えている「統覚」は、脳の機能としては他の哺乳類とほとんど変わらない。痛いとか恐いといったネガティブな感覚を感じるのは大脳辺縁系と呼ばれる「古い脳」で、人間も犬も同じだ。痛いと感じる主体と逃げる主体がばらばらでは生存できないので、こういう同一性は多くの動物で共通だ。

愛情とか道徳といった高次の感覚は、かなり最近(といっても数千万年前)に発達した大脳新皮質の機能で、前頭葉にあるとされている。理性はそれに従属する、もっと新しい脳の機能である。それは古い脳とは必ずしも一致しないので、意識と無意識の分裂は、この辺縁系と新皮質の間にある時間の隔たりが原因と考えられる。

こういう二元論はデカルトの時代からあるが、19世紀までは理性が中心だった。マルクスは無意識的なイデオロギーを生み出しているのは資本主義の矛盾で、理性的なプロレタリアートが不合理な資本主義を倒して世界を合理的に支配するという未来像を描いた。

これに対してフロイトは無意識のゆがみをもたらすのは家族だと考え、特に性的なコンプレックスがヒステリーの原因になると考えた。マルクスとフロイトを接合したのが1960年代の反精神医学で、ドゥルーズ=ガタリはその運動の産物だが、このような無意識は神話である。

実際には無意識はフロイトが描いたようなドロドロしたものではなく、意識の世界とはっきりわかれているわけでもない。それはカーネマンが「システム1」と呼んだように反射的な「速い思考」だが、それがわれわれを動かすエネルギーは意識より大きい。それを「バイアス」と否定するのではなく、感情の合理性を考える必要がある。