原爆 私たちは何も知らなかった (新潮新書)
原爆投下については、今も多くの疑問が残っている。原爆を「人類」の問題にすりかえ、アメリカの戦争犯罪を追及しない方針を日本政府がとり、マスコミもタブーにしているからだ。原爆を投下するには、次の三つの選択肢があった。

 1.無人島などに落として威力を見せる
 2.軍の施設に落として破壊する
 3.市街地に落として多数の市民を殺す

原爆を開発した科学者は、それを抑止力として使うことを目的にしていたので、実際に原爆を投下することには反対した。アメリカ政府でも(軍部を含めて)、2で十分だという意見が多かった。3は国際法違反の無差別爆撃だが、事前に警告して日本政府に降伏を迫ることもできた。最終的に選ばれたのは「警告なしの無差別爆撃」という最悪の手段だったが、誰がそれを決めたのだろうか。

本書はそれを当時の議事録などから、トルーマン大統領だったと推定する。1945年5月に開かれた原爆についての「暫定委員会」では、多くのメンバーが警告なしの原爆投下に反対したが、それを押し切ったのは、トルーマンの代理として会議に出席したバーンズ元戦時動員局長だった。スティムソン陸軍長官は警告すべきだと主張したが、トルーマンはなるべく日本に打撃の大きい手段をとろうとしたのだ。

原爆を落としたかったトルーマン

なぜトルーマンが警告なしで爆撃すると決めたのかについては、はっきりした証拠はない。彼が日本人に対して人種的偏見をもち「真珠湾の復讐」を図っていたことが日記などでわかるので、それが原因かもしれない。ソ連の参戦が近いこともわかっていたので、その前に終戦を急いだとも考えられるが、彼は原爆の破壊力について十分説明を受けていなかったようだ。

しかしスティムソンは警告なしでは国際法違反に問われると考えたので、トルーマンに警告を出せと強く要請した。これを受けてトルーマンが出したのが、7月26日のポツダム宣言である。ただポツダム会談では何も決まらなかったので、トルーマンは自分で米英ソの署名をしてポツダム宣言を出した。ソ連の署名欄はなかった。

ポツダム宣言の原案には「天皇制の維持」が条件として明記されていたが、トルーマンはこれを削除した。日本が降伏するには天皇制の維持が必要だと考えていたスティムソンはこれに反対したが、トルーマンは受け付けなかった。日本が降伏したら、原爆が投下できないからだ。

ポツダム宣言を日本が「黙殺」したため、原爆は予定通り2発、投下された。それが「聖断」の決定的な原因だったかどうかははっきりしないが、トルーマンが真珠湾の復讐を遂げたことは間違いない。彼はのちに「原爆投下によって本土決戦が避けられ、100万の米兵の命が救われた」と弁明したが、原爆投下をそれ以降は禁じた。朝鮮戦争で原爆投下を主張したマッカーサー最高司令官を解任したのも、広島・長崎への罪の意識だったのかもしれない。