民主主義の内なる敵
20世紀は、民主主義が全体主義と闘った時代だった。民主主義の勝利は自明のようにみえたので、冷戦の終結以降、東欧や途上国で多くの国が民主主義を採用した。しかし2010年代には「アラブの春」は挫折し、先進国では民主主義はポピュリズムになった。民主主義の敵はもはや社会主義ではなく、その内部にあるのだ。

その原因は民主主義と一体で語られる自由主義にある、と著者はいう。その起源を彼は、5世紀初めのアウグスティヌスとペラギウスの神学論争に求める。アウグスティヌスは「原罪」の概念を確立したが、これをペラギウスは批判した。神は自分に似せて人間をつくったのだから、人間が罪を犯すはずがない。そもそも人間の運命が神の意志ですべて決まっているのなら、罪を犯すこともできない。

これは論理的には強力な批判だったが、ペラギウスは論争に敗れ、異端として追放された。しかし18世紀の啓蒙思想は彼を再発見し、「個人が自由意思で政権を選択し、その結果に責任を負う」というペラギウス主義が民主国家の原理になった。それを大規模に実験した最初の試みがフランス革命だが、結果は悲惨だった。何が間違っていたのだろうか。

「選択」の幻想

民主主義とは「主権者たる国民が統治者を選択する」というフィクションだが、権力を委任された統治者がつねに国民の意思に従うとは限らない。国民がナポレオンを選択したとき、彼は共和制の維持を約束したが、彼が「皇帝」となってヨーロッパ全土に戦争を拡大するとき、それを止める勢力はいなかった。民主主義とポピュリズムの境界は、それほど自明のものではない。

著者は「新自由主義」も選択の幻想の結果だという。市場経済は消費者が自分の選択によって決めた結果だから納得すると考えるが、所得分配は選択することができない。それは人々の出発する初期条件であり、市場経済はそれを正当化するシステムだという。それ自体は正しいが、問題は市場より政府のほうがましなのかどうかだということだ。著者がながく住んだ社会主義の経験は、そうではないことを教えている。

新自由主義の想定する「合理的個人」は社会をコントロールでき、その結果にもすべて責任を負うと信じている、という著者の批判はミルトン・フリードマンには当てはまるが、ハイエクに対しては不当だ。むしろハイエクは個人が合理的に決定できないから、その誤りを訂正する機能をもつ市場が社会主義よりすぐれていると考えたのだ。

科学技術も、著者によれば選択の幻想だ。それは核兵器を生み、フクシマを生み出した。人間が自然をコントロールできるというのは幻想だと著者はいうが、では科学技術よりましなものは何か。途上国で多くの人が飢えているとき、著者のいう「社会的エコロジー」は、先進国のお遊びではないのか。

多様な信仰の共存するカトリック教会に対して「自分の選択によって救われる」と考えた啓蒙的な人間中心主義(ヒューマニズム)に近代の誤りの根源を見出す本書の発想はいいと思うが、その結論は竜頭蛇尾だ。著者も「民主主義の代わりになる制度はない」と認める。市場経済も科学技術も完全ではないが、それよりましなシステムは今のところないのだ。