清水幾太郎の覇権と忘却 - メディアと知識人 (中公文庫)
清水幾太郎は丸山眞男の最大の親友で、60年安保をともに闘ったが、その後は交流がなくなった。丸山は「夜店」をたたんで本業の日本政治思想史の研究に専念したが、本業のない清水は「転向」し、右派論壇誌の常連になった。1980年に発表した「核の選択――日本よ国家たれ」で大反響を呼ぶが、進歩的知識人からは縁を切られた。

しかし清水の60年代以降の論文は、それほどおかしなものではない。福田恆存も清水を批判したが、それは「今ごろ何をいっているのか」という批判だった。1954年に福田が「平和論の進め方についての疑問」を発表したときは轟々たる批判を浴びたが、「転向」後の清水の主張はそれとほぼ同じである。

1950年代の知識人は「戦前の日本に戻すな」という素朴な信念で団結したが、それが政治的には間違いだったことに気づいた人は丸山のように沈黙した。清水のように正直な人は「転向」したが、彼はそれなりに知的に誠実だった。その後の論壇を支配したのは、社会党や朝日新聞のように間違いをごまかして「非武装中立」などの嘘をつき続けた人だった。

党派の論理と歴史の審判

政治運動と知的誠実は両立しないことが多い。政治を動かすのはエリートの論理ではなく大衆の感情だから、政治家は党派的に行動するしかない。一人で正しいことを言っても、民主政治は動かない。丸山はそういう党派性をきらったが、1960年5月19日の強行採決を「民主主義の危機」として盛り上げた。

清水は「強行採決が民主主義に反するとは思わなかった」とのちに書いているが、当時は「今こそ国会へ」と国民を煽動した。その熱がさめたあと、彼が安保反対の主張をやめたのは知的に誠実だったからだ。

それを道徳的に非難し、社会主義を守った人々を賞賛するのは逆である。安保反対運動を指導したのは社会党や共産党だったが、彼らの信じた社会主義国は当時も理想郷でないことはわかっていた。彼らが安保改正に反対したのは政策論ではなく、党派的な結束だった。

自民党にはそういう主義主張がないので、党派性があまりない。社会主義や労働運動を指導するエリートは、自分ではその政治的主張が必ずしも正しいとは思っていないが、あたかも100%正しいかのように大衆を煽動する。彼らが誠実に「ここは正しくないのですが…」といったら、運動は成り立たないからだ。

しかし60年安保を指導した知識人の名前を記憶している人は、今ではほとんどいない。今の反安保運動を指導している憲法学者も、本気で「第9条で日本を守る」とは思っていないだろう。政治家が党派の論理で動くのは仕方ないが、学者は歴史の審判を恐れるべきだと思う。