AI原論 神の支配と人間の自由 (講談社選書メチエ)
最近よく「人工知能(AI)が人間を超えるか」という類の議論がある。この答は、AIの定義による。それを「人間の脳」と考えるなら、コンピュータで脳を完全にコピーすることはできないし、そんなことをする意味もない。他方、AIを「脳の機能」と考えると、コンピュータの能力が人間を超える分野はすでに多い。

だから「ビッグデータ」を使って「ディープラーニング」で学習すれば、コンピュータの(判断や類推などを含む)認識能力が人間を上回る日が来るかもしれない。今でも人間より速く走れる機械や、人間より重い荷物をもてる機械はある。人間より速く考える機械ができるのも同じような変化で、本質的な問題ではない。脳の機能を身体の他の機能とちがう特権的なものと考えるのは「脳中心主義」の錯覚である。

ところが世の中には、これをまじめに論じる人がいる。本書はその極めつけで、なぜかAIと「思弁的実在論」を結びつける。これは近代哲学の主流である「相関主義」を否定して、主観を超えた実在を認識できると主張するが、AIはそんなことを目標にしてはいない。彼らはコンピュータの総合的な認識能力が高まるというだけで、その認識が客観的実在と一致する必要はない。本書の問題設定はトンチンカンなのだ。

脳の本質は「理性」ではない

AIについてのこういう議論は、昔からある。1950年代の第1次ブームではフレーム問題があるので、AIは人間を超えられないという議論があった。これはたとえば「猫に餌を与えろ」という動作をロボットに命令したとき、猫とはどういう動物か、餌はどこにあるのか、それを何に入れるのか…といった選択肢(フレーム)が多く、それをすべて考えていると行動できないという問題である。

フレームは論理的には無限にあるが、必要な選択肢は限られているので、コンピュータの計算量が大きくなれば「腕力」で解決できる、と多くの技術者が考えたが、現実にはできなかった。フレームの数は限られていても、猫が逃げたらどうするのか、といった想定外の事態の「組み合わせの爆発」が起こってしまうからだ。

第2次ブームは、1980年代に「第5世代コンピュータ」が開発されたころだ。このときは自然言語処理が目的だったので、組み合わせの爆発を論理で解決しようと考えたが、例外処理が膨大になり、行き詰まってしまった。その後ニューロコンピュータで「学習する機械」が開発されたが、大した成果は上がらなかった。

今は第3次ブームで、ディープラーニングはフレームそのものをコンピュータが学習するシステムだが、グーグルのコンピュータが「猫」という動物を認識するだけでも1000台のコンピュータを3日間回したという。こんな調子ですべてのフレームを学習することはコストが見合わない。

これまでのAIが行き詰まった原因は、人間の脳の本質が「理性」にあると考えたからだ。最近の脳科学で明らかになっているように、脳のもっとも重要な機能は人間関係を調整する「感情」であり、論理は何のためにあるのか結論が出ていない。フレームは感情で決まるので、そこに論理はない。

逆にいうとフレームを決めてしまえば、あとは論理で処理できる。将棋や碁のようにフレームを与えると、コンピュータが人間よりまさる分野はある。公務員のような事務作業は、コンピュータのほうが速く正確にできるだろう。だが経営者のような判断業務が人間以上にできるかどうかは疑問だ。そこには感情が必要だからである。