ジョン・ロック――神と人間との間 (岩波新書)
ジョン・ロックは退屈である。本の名前は誰でも知っている『統治二論』を最後まで読んだ人は、ほとんどいないだろう。「近代的な財産権の宣言」というイメージとは違う神学的な話が延々と続き、財産権の根拠になっていないからだ。

しかし著者は、それがロックの本質だという。彼のコアにあったのは啓蒙的な個人主義ではなくピューリタニズムであり、世界は「神の作品」だという信仰だった。Propertyという言葉は「所有権」とか「財産権」とか訳されるが、本書によればそれなしには神への義務を果たすことができない固有の権利で、資産だけでなく「生命・健康・自由」を含む。

ロックが「プロパティ」の根拠を労働に求めたのも労働価値説ではなく、神の救いの確証を見出すためだという。財産の格差は勤勉によるものだから、土地の所有権も投下した労働で正当化される。北米に移民したイギリス人が原住民を追い出して開拓した土地は、労働した開拓者のものだ。ロックは明確に植民地支配を肯定している。

『統治二論』は王党派の王権神授説の批判だった。その代表が、フィルマー卿と呼ばれる貴族だった。彼は「神はエデンの園でアダムに王権を与えたので、その権限が長子相続でイギリス国王に受け継がれた」という「万世一系のイギリス国王」説を主張した。

財産権は個人と資産の対応

プロパティがロックのいうように「人間とそれ以外の被造物をわかつすべての属性」だとすると、その根拠は王権を超える神であり、人間は国王の不当な支配に対する抵抗権をもっている。プロパティが神から与えられた自由権だとすると、その根拠は労働ではなく「神意」だということになる。

こう考えると、ロックの議論の弱点である土地の所有権も、それなりに理解できる。土地そのものは労働の産物ではないが、人間がある時期にたまたまその土地を保有した運命は来世における救済を示す神の意思であり、それがプロパティの根拠なのだ。したがってそれは政治と切り離し、神との契約の問題と考えるべきだというのがロックの自由主義(寛容の原理)である。

財産権の根拠を何に求めるかは、法学でもいまだに決着がついていない。それが個人の労働生産物を国家の介入から守る自由権だというロック以来の考え方は、土地や著作権には適用できない。著作物を財産として複製を禁止する制度は、むしろ情報の自由な流通をさまたげている。

しかし経済学的には、財産権の根拠は明らかだ。一つの資産に複数の所有者がいるとアンチコモンズが発生して取引ができなくなるので、誰でもいいから所有者が一人に決まればいいのだ。

この意味での財産権は個人と資産の対応であり、一義的に決まっていれば、コースの定理によって市場でパレート最適な配分が可能になるが、その配分が公平かどうかはわからない。「神の作品」としてプロパティを定義するロックの議論は、知的財産権の定義としてはふさわしいかもしれない。