日本の原子力外交 - 資源小国70年の苦闘 (中公叢書)
まもなく日米原子力協定が自動延長される。その条件は日本が余剰プルトニウムを使い切ることだが、六ヶ所村の再処理工場が動くめどが立たない現状では、核燃料サイクルは成り立たない。それでも経産省と電力会社が核燃料サイクルにこだわるのは、日本の原子力開発が高速増殖炉(FBR)を中核として始まったからだ。

アメリカの原子力開発も1970年代までは核燃料サイクルを前提にしていたが、カーター政権がくつがえした。日本もヨーロッパも、これに強く反発した。初期の「核拡散防止」は、米ソ以外の国が核兵器を持てないようにすることだったが、その後、中国が核兵器を開発し、プルトニウムを規制するだけでは拡散を防げない一方、その平和利用に強い制限がかかったからだ。

アメリカの方針は迷走し、世界中がこの方針転換に振り回された。同じころスリーマイル島の原発事故が起こり、アメリカでは67基の原発建設がキャンセルされ、1980年代以降まったく建設されなくなった。将来は火力を代替する超経済的なエネルギーとして期待された原子力は、こうした政治的な原因で挫折したのだ。

他方、日本ではFBRの開発が遅れる一方、それまでのつなぎだった軽水炉の経済性が高かったため、全国の電力会社が軽水炉の建設を進めた。結果的に原子力開発は進んだが、核燃料サイクルは宙に浮いてしまった。1990年代までに「全量再処理」の方針には疑問が出てきたが、日本は方針転換できなかった。

転換のチャンスは3度あった

日本の原子力行政には、転換するチャンスが3度あった。最初は1980年代に、アメリカが核燃料サイクルを放棄したときだ。当時はまだ東海村の再処理工場しかなかったので、無理をする必要はなかった。遠い将来の核武装のオプションを確保する意図もあったのかもしれないが、10年越しの交渉で1988年に日米原子力協定を結んだのが大きな岐路だった。

その次の分かれ目は、2004年に核燃料サイクルをめぐって経産省と電事連の食い違いが表面化したときだ。このとき経産省のグループが「19兆円の請求書」という怪文書を出し、再処理工場の建設を止めようとしたが、経産省の村田事務次官と東電の南社長の意見の食い違いで決断できなかった。

3・11が3度目の岐路だったが、そのとき民主党政権だったため、「原発ゼロ」を打ち出してアメリカに一蹴され、転換できなかった。今では核燃料サイクルは経済的には絶望だが、非経済的な存在理由がないわけではない。本書もいうように使用ずみ核燃料をMOX燃料にして体積を減らし、核兵器に転用する可能性をなくすという安全保障上の理由だ。

このため経産省はフランスと共同で、ASTRIDという次世代の高速炉を開発する計画を進めているが、これはプルトニウムを「完全燃焼」させるだけで、FBRのように「増殖」できるわけではない。燃料集合体のまま直接処分するほうが経済的にははるかに安く、ウランの埋蔵量の制約も今は意味がない。

次世代炉としては他にも多くの技術的な選択肢があり、トリウムなどまったく別の技術もあるので、長期的には日本が原子力開発を続ける意味はある。やるなら電力会社の原子力部門を国有化し、核燃料サイクルとともに政府が責任を負うしかないだろう。