戦前日本のポピュリズム - 日米戦争への道 (中公新書)
明治憲法は天皇大権だったが、民衆には天皇の権威はそれほど浸透しなかった。日露戦争後の日比谷焼き打ち事件は最初の民衆暴動だったが、天皇を崇拝する意識はあまりなかった。民衆の不満を集約するシンボルがなかったので、反政府運動は散発的な暴動に終わった。

天皇の権威が強まったのは、普通選挙の始まった昭和初期である。帝国議会はスキャンダルと政争に明け暮れ、腐敗した政党を超える権威として、民衆にもわかる天皇がシンボルとして利用されるようになった。教育勅語や御真影など、天皇を「現人神」として崇拝する教育が強化された。

軍部が「統帥権の干犯」を問題にしたのは、1930年のロンドン海軍軍縮条約のときだ。このときまで新聞は軍縮派だったが、1931年の満州事変で新聞は主戦派に「大旋回」した。右翼はそれまで通説だった天皇機関説を槍玉に上げ、天皇親政を掲げる青年将校のクーデタが頻発した。このような政党政治の自壊が生んだのが大政翼賛会だった。「政党政治が足りなくて大政翼賛会に行き着いたのではない。行き過ぎてそれを招来したのだ」。(本書p.285)

天皇から「天皇シンボル」へ

このようなシンボルの重要性に早くから気づいていたのが北一輝だった。彼は怪写真が流布された「朴烈事件」の首謀者として検挙され、「統帥権干犯」という言葉も彼が発案したといわれる。そして彼は二・二六事件で死刑になった。

北は共和主義者で、社会主義革命を起こして彼が独裁者になろうとしたのだが、天皇を「玉」として利用して青年将校の支持を得た。二・二六事件そのものは無謀なクーデタだったが、それが「皇道派」によって国民の広範な支持のもとに行われたことは重要だ。それは明治憲法の名目的な天皇とは違う「天皇シンボル」の利用価値が高まったことを示している。

大衆のエネルギーは、それを集中するシンボルがないと大きな運動にはならない。明治期には散発的な暴動に終わった大衆のエネルギーが、昭和期には天皇シンボルに集約され、軍部のクーデタや右翼のテロが起こった。それを治安維持法で弾圧する政府も「国体」を利用したので、天皇が政党を超えたシンボルになった。

昭和日本の大衆のエネルギーの爆発は、天皇大権の明治憲法によって生まれたのではなく、明治憲法を超える天皇シンボルによって可能になったのだ。その点では、天皇を「象徴」と規定した新憲法は、実質的には明治憲法とあまり変わらない。違うのは、それを利用する軍事的な主権がないことだ。この点では、戦後の天皇は、よくも悪くも戦前よりはるかに安全である。