戦後日本の「表の国体」は議院内閣制による政治主導だが、「裏の国体」は財務省を中心とする官僚主導だった。この政官共同体は、1980年代までは成長による果実の分配という共通利益で結びついていたが、90年代以降の負担の分配では利害が食い違い始めた。バラマキを続けたい自民党に対して、大蔵省は負担の増加を求めたのだ。

このとき小沢一郎氏は1993年に大蔵省と結託して増税しようとし、細川内閣で7%の「国民福祉税」を提案したが、一夜にして撤回した。その細川内閣が10ヶ月で倒れたあと、自民党の大蔵省に対する報復が始まった。予算編成権で官僚機構の中枢機能をもつ大蔵省に対して、自民党は人事権を握って人的な中枢機能で対抗しようとしたのだ。

それが橋本内閣から始まった官邸主導の改革である。その中心は「行政改革会議」だったが、事務局が不在で迷走した。1997年9月の中間報告では、図のように郵政省と農水省を消滅させる案が発表された。これをつくったのは通産省だったが、自民党にほとんど根回ししていなかったので、郵政省と農水省が族議員を使って猛然と巻き返した。

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