安保条約の成立―吉田外交と天皇外交 (岩波新書)
1951年のサンフランシスコ条約は戦後史の最大の分かれ目であり、このときの吉田茂首相の判断が今なお政治に決定的な影響を及ぼしている。このとき講和条約は「単独講和」として批判を浴びたが、いま考えればそれ以外の選択はなかった。「全面講和」は不可能だった。

問題は米軍基地を日本のどこにでも置ける安保条約(および行政協定)で、これは明らかな不平等条約だった。当初は吉田は、日本側首席全権としてサンフランシスコに行くことを拒否した。最終的には講和条約には全権6人が署名したが、安保条約には吉田が1人だけで署名した。これは安保条約への不満を示したものと思われるが、日米交渉の最高責任者としては異常な行動である。

なぜ吉田はこんな不平等条約を急いで結んだのか。安保条約に不満なら、なぜ時間をかけて対等な条約にしなかったのか。これは今も謎だが、本書はそれを説明する「仮説」を提案する。それは安保条約の早期締結が昭和天皇の意思だったというのだ。この仮説を裏づける証拠はまったくないが、状況証拠はないわけではない。

昭和天皇の政治的介入?

その一つが、1947年の天皇メッセージである。これは「米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解」とされている。正式の政府見解ではないが、結果的には「日本の主権を残したままの長期租借」という天皇の言葉どおりになった。

天皇にとって何よりも大事なのは天皇家の存続であり、そのために絶対に避けるべきなのは共産主義革命だった。朝鮮戦争でアメリカが負けると、ソ連が朝鮮半島を支配し、アメリカの占領統治に介入するおそれがある。東京裁判をやり直して、天皇を処刑するかもしれないので、早期に日米同盟を結んで米軍基地を残し、ソ連の侵略に対抗する体制をつくるべきだと考えた――というのが本書の仮説である。

もちろん天皇が政治的意思決定を行うのは憲法違反であり、彼が日米同盟の構造を決めたとすれば重大な問題だが、この推理には無理がある。朝鮮戦争で米軍が朝鮮半島から撤退したら日本に駐留するはずで、日本がソ連の支配下に置かれることはありえない。まして占領統治や東京裁判をやり直すことは不可能だ。

では真の理由は何だったのだろうか。吉田の回顧録を読んでも、安保条約についての話は驚くほど少なく、何かを隠しているという印象はまぬがれないが、それが不平等条約だと考えていたことは明らかだ。常識的には、安保条約は不平等でも、早期講和を優先したということだろう。天皇がそれを支持して吉田の決断をうながしたことはありうる。

結果的には、朝鮮戦争という「非常時」に講和を結んだことが戦後日本の初期条件を決めてしまった。吉田も朝鮮半島の情勢が落ち着いたら、安保条約は改正すべきだと考えていたようだが、岸信介の安保改正も中途半端に終わった。吉田がアメリカの求めた憲法改正を拒否した「ボタンの掛け違い」が最大の失敗だった。

本書は岩波新書なので、結論は「アジア諸国との和解」という意味不明な話になっているが、安保条約がボタンの掛け違いだったことは認めている。それなら沖縄問題で地位協定だけを糾弾するのではなく、安保条約も憲法も見直すことがボタンをかけ直す第一歩だろう。