三浦瑠麗氏の騒ぎをみて、カール・シュミットの「デモクラシーの本質は異質な者の排除ないし絶滅である」という言葉を思い出した。北朝鮮のテロリストを排除しない「寛容な国家」が、国民の安全を守ることはできない。主権者たる国民のアイデンティティは、自動的に保証されるものではないのだ。デモクラシーの根底には、主権者の同質性を守る差別がある。

近代国家は、いつもケルゼンかシュミットかの対立に引き裂かれてきた。ケルゼンは「有権者の多数を得た者が議員になる」といった手続き的整合性だけで国家が成り立つと考えたが、これはシュミットが批判したように誤りである。この法は「誰が有権者か」という定義なしでは意味をなさない。

身分制議会の有権者は貴族と納税者だったが、20世紀には税金を払わない大衆も有権者になった。男性は兵役の義務を負ったので戦争に必要だったが、婦人参政権は納税にも戦争にも役に立たない。シュミットが指摘したように、普通選挙には主権者の同質性が欠けているのだ。このような大衆政治の不安定性が顕在化したのがワイマール体制だった。

続きは2月19日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。(まぐまぐに引っ越します)