西部邁氏が死去した。自殺と報じられているが、くわしいことはわからない。私は彼が1974年に東大に赴任したときの最初のゼミの学生で、その後も毎月のように飲み屋で会った。当時は「社会経済学」という境界領域を開拓しようとしたのだが挫折し、1988年に中沢新一事件で東大をやめた。
世間的にはそのころから有名になり、「朝まで生テレビ」の常連になってマスコミの流れを変えた。80年代までの論壇は左翼が圧倒的主流で、保守派は皇国史観の変なやつというイメージだったが、彼は左翼の一国平和主義を論破し、憲法の矛盾を追及して形勢を逆転した。
彼の主張は冷戦の終了とともに一定の支持を得るようになったが、次第に右寄りのスタンスを強めた。民主主義を否定して核武装を主張し、規制改革や民営化などあらゆる改革を否定する「反米保守」の教祖になった。「自虐史観」を否定する教科書グループに入って右翼を連れて飲み歩くようになり、私は飲み屋で彼の隣にいた右翼に殴られたこともある。
世界的にはそのころフリードマンなどのマネタリストが主流になり、経済学の専門分化が進んだが、西部氏は保守主義のフリードマンを批判していた。彼が学内でもめた原因も教養学部の改革に失敗したからで、保守を自称するのは東大をやめたころからだ。
彼には文才があり、ちょっとした話を衒学的にに書く才能は学者より評論家に向いていたが、常識的なことを言っていては目立たないので、どうしてもエッジのきいた話に傾斜してゆく。左翼が全盛の時代には『諸君』や『正論』のように朝日新聞と違う話を載せる論壇誌がそれなりに売れていたので、彼は保守の売れっ子になった。
朝日新聞のきらいな人は、地方の青年会議所などに多いので、彼は講演で人気者になり、毎週のように地方で講演するようになった。「朝生」に出るのはその営業のようなもので、彼もテレビは好きではなかったが、「テレビを断ると講演が減る」と嘆いていた。
彼もそういうマスコミの言論に限界を感じ、1994年に『発言者』という雑誌を創刊したが、話は繰り返しが多く、執筆者も固定していた。そこに集まったのは保守というより国粋主義者で、飲み屋では野村秋介(朝日新聞社で自殺した右翼)が同席したこともある。
90年代以降は細川政権も小泉政権も批判し、日本的経営や終身雇用を賛美し、市場経済や経済成長を否定した。アメリカがきらいで、日本は「国柄」を大事にしろという。だが江戸時代まで、日本に統一国家は存在しなかった。彼のいう国柄とは明治の「国体」であり、それを丸ごと肯定する話は学問的には成り立たない。
かつて彼が敵としていた左翼は衰退し、今では若者が保守を名乗るようになった。その意味では先見性があったが、彼はよくも悪くも中身ではなくレトリックで読ませる日本的な評論家だった。それは小林秀雄から吉本隆明まで、思想と文芸評論の分化しない日本の論壇の主流だった。専門知識がなくても喧嘩はうまく、人柄は無類によかった。
しかし結果的には、彼の「反米保守」路線は孤立し、自民党の中でも主流にはなれなかった。その意味では「右の万年野党」だった。冥福を祈りたい。
世間的にはそのころから有名になり、「朝まで生テレビ」の常連になってマスコミの流れを変えた。80年代までの論壇は左翼が圧倒的主流で、保守派は皇国史観の変なやつというイメージだったが、彼は左翼の一国平和主義を論破し、憲法の矛盾を追及して形勢を逆転した。
彼の主張は冷戦の終了とともに一定の支持を得るようになったが、次第に右寄りのスタンスを強めた。民主主義を否定して核武装を主張し、規制改革や民営化などあらゆる改革を否定する「反米保守」の教祖になった。「自虐史観」を否定する教科書グループに入って右翼を連れて飲み歩くようになり、私は飲み屋で彼の隣にいた右翼に殴られたこともある。
改革派から保守派へ
彼が大学にいたころは改革派で、経済学を社会学や政治学と統合しようとしたが、うまく行かなかった。「学際的」な学問を創造するには、それぞれの学問について専門家に匹敵する理解が必要だが、彼には無理だった。世界的にはそのころフリードマンなどのマネタリストが主流になり、経済学の専門分化が進んだが、西部氏は保守主義のフリードマンを批判していた。彼が学内でもめた原因も教養学部の改革に失敗したからで、保守を自称するのは東大をやめたころからだ。
彼には文才があり、ちょっとした話を衒学的にに書く才能は学者より評論家に向いていたが、常識的なことを言っていては目立たないので、どうしてもエッジのきいた話に傾斜してゆく。左翼が全盛の時代には『諸君』や『正論』のように朝日新聞と違う話を載せる論壇誌がそれなりに売れていたので、彼は保守の売れっ子になった。
朝日新聞のきらいな人は、地方の青年会議所などに多いので、彼は講演で人気者になり、毎週のように地方で講演するようになった。「朝生」に出るのはその営業のようなもので、彼もテレビは好きではなかったが、「テレビを断ると講演が減る」と嘆いていた。
彼もそういうマスコミの言論に限界を感じ、1994年に『発言者』という雑誌を創刊したが、話は繰り返しが多く、執筆者も固定していた。そこに集まったのは保守というより国粋主義者で、飲み屋では野村秋介(朝日新聞社で自殺した右翼)が同席したこともある。
反米保守は「右の万年野党」に終わった
いま考えると彼が1980年代に言っていたことは常識的だったが、当時は「悪役」だった。それが今は常識になったともいえる。その意味では左翼による論壇支配に風穴をあけた功績は大きい。保守という言葉を肯定的に使ったのも一種の開き直りだったと思うが、そのうち自分の貼ったレッテルに自縄自縛になった。90年代以降は細川政権も小泉政権も批判し、日本的経営や終身雇用を賛美し、市場経済や経済成長を否定した。アメリカがきらいで、日本は「国柄」を大事にしろという。だが江戸時代まで、日本に統一国家は存在しなかった。彼のいう国柄とは明治の「国体」であり、それを丸ごと肯定する話は学問的には成り立たない。
かつて彼が敵としていた左翼は衰退し、今では若者が保守を名乗るようになった。その意味では先見性があったが、彼はよくも悪くも中身ではなくレトリックで読ませる日本的な評論家だった。それは小林秀雄から吉本隆明まで、思想と文芸評論の分化しない日本の論壇の主流だった。専門知識がなくても喧嘩はうまく、人柄は無類によかった。
しかし結果的には、彼の「反米保守」路線は孤立し、自民党の中でも主流にはなれなかった。その意味では「右の万年野党」だった。冥福を祈りたい。