中曽根康弘 - 「大統領的首相」の軌跡 (中公新書)
中曽根元首相が死去した。世間的にはロッキード事件やリクルート事件で逃げ切った「汚い政治家」というイメージが強いが、政治的な実績は大きい。特に国鉄と電電公社の民営化は、他の政権にはできない大事業だった。これはレーガン政権の「小さな政府」の日本版だが、「新自由主義」という言葉は中曽根が1977年に使ったのが最初だといわれている。

弱小派閥の出身で「田中曽根内閣」といわれたほど政権基盤の弱体だった彼が5年の長期政権になった背景には、日米関係の変化があった。70年代までアメリカの忠実な部下だった日本の位置づけは、レーガン政権で大きく変わった。日本はアメリカの最大のライバルとなり、経済的な「自立」を求められたのだ。

中曽根首相は「戦後政治の総決算」を掲げたが、憲法改正は提案しなかった。彼が総決算しようとしたのは、戦後の「福祉国家」路線だった。その第1弾が民営化で、第2弾が間接税による財政再建だった。そのため中曽根は「売上税」を導入しようとしたが失敗し、「増税できる首相」として竹下登を後継者に選んだ。

未完の「保守革命」

結果的には中曽根の最大の業績は行政改革だったが、これはいま考えると奇妙である。中曽根は「風見鶏」と呼ばれ、田中派にすり寄るポピュリストだと思われていたが、行政改革は政治的には不人気なテーマだった。

中曽根が首相になった1982年の財政赤字はGDP比4%で、彼の在任中に大きく減って1988年には財政黒字になった。実質成長率も4~7%で、世の中は「バブル景気」にわいていた。行政改革を迫られる状況ではなかったが、彼は小さな政府路線を進めた。

これにはいくつかの説明が考えられる。第一はアメリカの「新自由主義」の影響で、サッチャー・レーガンの「保守革命」の流れに乗ろうと考えたことだが、当時の英米はスタグフレーションで大きな財政赤字を抱えていた。日本とは状況は違っていたのだ。

第二は、自民党の財政タカ派の伝統だ。当時まだ最高顧問として実権をもっていた岸信介などの右派には「借金財政は国を滅ぼす」という意識が強かった。当時は大蔵省の力も強く、長期金利は7~9%と高かったので、財政赤字を削減する圧力が高まった。

第三は財界の力だ。「増税なき財政再建」を旗印として国鉄や電電の民営化を主導した第二臨調は、土光会長を代表とする財界がバックアップした。これは「納税者」としての彼らの圧力が政治を動かしたということでもある。

中曽根の念願としていた消費税は1989年に竹下内閣で導入されたが、この年は1%以上の財政黒字になった。竹下は使い道に困り、「地方創生」と称して各市町村に1億円を配った。その後、中曽根の行革・増税路線を受け継ごうとしたのは小沢一郎だったが、彼は挫折し、保守革命は中途半端に終わってしまった。

その後は(小泉政権を除いて)日本には小さな政府を掲げる政権がなくなったが、中曽根がやった電電民営化がなかったら、日本の情報通信産業は大きく立ち後れていただろう。小さな政府の本質は財政赤字ではなく、政府が経済から退場して生産性を高めることなのだ。