安保法制をめぐる議論は憲法解釈ばかりで、日本の安全をいかに守るかという話がないが、1960年の安保改正も何が問題だったのかよくわからない。1951年に結ばれた旧安保条約と日米行政協定は、米軍が日本国内に基地を自由に置ける不平等条約で、これを岸首相が対等な条約に改正しようとしたのは当然だった。

それは当初は野党も同じだった。砂川事件の起こった1957年に、清水幾太郎などの進歩的知識人は「基地問題の根源的な原因は安保条約と行政協定にある」として、その「根本的な再検討」を求める声明を出した。これに対して岸は国会で「文化人が健全な世論を建設する場合には、これを尊重してゆく。安保条約、行政協定は再調整する時期になっている」と答弁した(清水『わが人生の断片』)。

知識人の声明が図らずも安保改正の露払いの役割を果たしたので、彼らはあわてて「これは憲法を改正せよという意味ではない」という補足声明を出したが、安保改正の流れは止まらなかった。安保条約を廃止して米軍を撤退させるには、憲法を改正して再軍備するしかないが、野党がこれをごまかして倒閣運動に利用したため、安全保障と無関係な混乱が始まった。

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