北朝鮮がまたICBMを発射し、日本も核武装すべきだという議論が再燃しているが、いま核拡散防止条約(NPT)を脱退することは日米同盟を脱退するに等しいので不可能だ。しかし栗山元外務次官によると、1960年代には日本政府はそういう選択肢を真剣に考えていたらしい。

1968年にNPTができたのは1964年の中国の核実験がきっかけだが、そのとき米ソの「隠れた目的」は、日本と西ドイツの核武装を封じ込めることだったという。NPTを強制する機関としてできたのがIAEAだが、その主な対象も日本だった。今でも六ヶ所村の再処理工場では、IAEAの査察官が24時間勤務でプルトニウムの量を監視している。

外務省はNPTのそういう不平等性を知っていたので、これに抵抗した。条約に署名したのは発効直前の1970年2月、批准は1976年6月だった。6年ももめたのは自民党タカ派の反対が原因だが、「非核三原則」を唱えた佐藤栄作もNPTに最初は反対だった。彼は「中国が核をもつなら日本ももつべきだと個人的には思う」とライシャワー大使やラスク国務長官に語った。

NPTが日本の原子力政策を決めた

こういう日本政府の迷走がアメリカに「日本は核武装するのではないか」という疑惑を抱かせ、このあとも日本の原子力政策の制約になった。70年代にはアメリカは、東海村の試験用原子炉の運転もIAEAの査察なしでは認めなかった。

他方、西ドイツは日本とは逆に核兵器の国内配備を認め、それを西ドイツも管理する二重の鍵(dual key)と呼ばれる政策で核を共有する方針をとった。ここでは核の存在を公然と認め、米軍が西ドイツ国内で指揮権を行使することを認める一方、ドイツもそれに対する拒否権をもった。

日本の場合は憲法の制約はあるにせよ、このような密約で核のタブーをつくったことは、のちのちまで日米同盟にひずみをもたらした。10年以上の交渉の末に、プルトニウムの生産にアメリカが30年間包括的に事前同意する日米原子力協定が1988年に結ばれたが、それはNPTの唯一の例外であり、核燃料サイクルへのコミットメントでもあった。

技術的に不確実性の大きい高速増殖炉に依存した日本の核燃料サイクル体制はNPTと一体で生まれたので、それがもう技術的に絶望とわかっても、撤退は政治的に困難だ。今はNPTを脱退する選択肢はもうないので、核の共有も選択肢だろう。核燃料サイクルも核兵器と切り離し、考え直してはどうだろうか。