戦後日本外交 軌跡と課題 (岩波現代全書)
戦後外交史の最大の岐路は60年安保だが、いまとなっては何が問題だったのかさえ不明な空騒ぎだった。あれほど盛り上がった運動が条約の通過後は急速にしぼんでしまったのも、反対派に大義がなかったからだ。むしろあの騒動のおかげで岸信介の考えていた日米相互防衛条約はできず、条約改正は中途半端に終わってしまった。その後遺症は今も与野党に残り、思い出したように「安保反対」が出てくる。

著者は宮沢内閣のときの外務次官だが、あの騒ぎの最初のきっかけは1954年のビキニ環礁事件だったという。これは読売新聞の誤報だったが、「放射能で死者が出た」というイメージが世界に広がり、原水爆署名運動が2000万人以上の署名を集め、日本に寄港する原子力空母や潜水艦への反対運動が強まった。

このため岸内閣は、核兵器の持ち込み(introduction)について事前協議するという制度を安保条約の付属文書に入れた。これは当時は日本政府が「拒否権」をもつと受け止められたが、現実にはそうではなかった。核兵器は60年代以降も、日本を通過(transit)するという形で、日本に持ち込まれたのだ。

空文化した事前協議

核兵器は戦争の手段であり、安保条約には書かれていない。その目的は効果的に防衛する戦力を配備して戦争を抑止することだから、その手段を制約することは国益にかなわない。核を持ち込むかどうかという判断も戦略的なものだから、米軍は核兵器を配備しているかどうかについてはNCND(Neither Confirm Nor Deny)という方針を取っていた。

もともと「核の傘」では、米軍が日本に核を持ち込むことを日本が拒否することはありえないが、「反核世論」に配慮して日本政府に対しては事前協議することになった。本書によると「有事には協議なしで核を持ち込む」というのが安保条約のときの日米の合意だったが、それは口頭の密約になり、外務省でも歴代の事務次官に申し送られた。

その結果、事前協議の対象となるのは陸上配備で、核兵器を搭載した空母や原潜が日本に寄港することは「通過」として事前協議の対象外だという解釈が引き継がれたが、これは安保体制の信頼性を傷つけた。さらに1968年に佐藤首相が非核三原則で「持ち込ませず」という原則を表明したため、問題はさらに混乱した。

そもそも核兵器の存在が日本の安全を危うくするという根拠はどこにあるのだろうか。日本国内でビキニ環礁のような核実験はできないので、爆発や放射能汚染は考えられない。ありうるのは核戦争になった場合に核基地が標的になることだが、地上配備された戦術核は1972年の沖縄返還で撤去された。核兵器を日本に持ち込むことは、核戦争のリスクとは無関係なのだ。

逆に核兵器を国内に配備して、機動的に使えるようにしておくことは意味がある。今は米軍が核兵器をグアムまでしか配備していないが、核兵器を搭載したB-1爆撃機を国内に配備する核の共有も一つのオプションだろう。それはビキニ環礁の事件がなければ、1950年代に実現していたかもしれない。

だが、こうした問題は国会で議論にもならない。「放射能は恐い」という国民感情が植えつけられ、それが(無関係な)原発事故で補強されたからだ。60年安保のとき、このような核兵器をめぐる特殊な感情に配慮して密約にした岸信介の判断は当時としては間違いとはいえないが、核の持ち込みをタブーにしたことは、今も日米の核をめぐる「ねじれ」の原因になっている。