米国と日米安保条約改定ーー沖縄・基地・同盟
1950年代までの左翼の影響力は、今では想像もつかないほど大きかった。特に知識人の中では、講和条約から安保改正までの論争では左翼が優勢で、自民党政権にもアメリカにも影響を与えた。本書はその歴史をアメリカ側からみたものだ。

吉田茂は再軍備を棚上げして講和条約を結び、結果的には戦後の日米関係を決めてしまったが、その「ボタンの掛け違え」を直そうとしたのが保守合同だった。自民党政権はたびたびアメリカに安保改正を働きかけたが、アメリカは拒否した。米軍基地は大きな既得権だったからだ。
しかし1957年のスプートニク・ショックで情勢が変わった、と本書はいう。ソ連がアメリカより先に人工衛星を打ち上げたことで、社会主義国の生産力が資本主義を超え、冷戦で西側が敗北する懸念が日本国内でも強まった。それに対応してアメリカは在日米軍基地を再編し、核兵器を沖縄に集中する方針をとった。

「巻き込まれ」論と事前協議

「巻き込まれ」という議論が出てきたのも、このころだ。米ソの核戦争が始まると、アメリカが負けるかもしれない。そのとき日本は「核の傘」どころか、米軍基地が攻撃の対象になり、核戦争に巻き込まれるかもしれない――当時は野党や政治学者がそう論じた。それがソ連の戦力の過大評価だったとわかるのは、30年後である。

こうした情勢の変化を受けてアイゼンハワーは大統領は、海外基地の配置についての「ナッシュ・レポート」で、世界的な再編・縮小の方向を打ち出した。米軍もスプートニクをきっかけに、在日米軍基地の再編に応じた。当時の力関係から考えても、アメリカが同意しない限り条約改正はできない。安保改正の主役は岸ではなく、アイゼンハワーだった。

とはいえ、米軍が日本から核を撤去するわけにはいかない。その妥協の結果、出てきたのが事前協議である。改正安保条約では、核の持ち込みが事前協議の対象となり、日本政府の知らない間に核戦争に「巻き込まれる」ことへの歯止めが制度化された。これはすぐ形骸化したが、そこにはアメリカの自民党政権に対する配慮があった。

他方、沖縄は条約の対象から除外された。これは沖縄に集中的に核を配備することを意味した。朝鮮戦争が終わって補給基地としての在日米軍基地の重要性が軽くなる一方、ベトナム戦争が激化すると、アジアへの出撃基地としての沖縄の比重は高まった。沖縄返還も「有事の核持ち込み」の密約で実現した。沖縄は憲法を改正しないで米軍を駐留させる「戦後日本の国体」の矛盾の集約なのだ。

アメリカ政府は自民党政権に配慮して基地の再編に応じたが、日本政府が憲法を改正できなかったため、自民党も野党も願っていた在日米軍基地の撤去はできなかった。1950年代に自民党政権が外交交渉を「密約」にしないで、基地問題の解決には憲法改正が必要であることを率直に説明していたら、今に至る不毛な対立はなかったかもしれない。