江戸の教育力 (ちくま新書)
大学無償化が再分配政策としてナンセンスであることは明らかだが、公的教育投資としても効果がない。大学は個人の「格付け機関」であり、教育サービスとしては無意味だからだ。江戸時代の寺子屋はそうではなかった。それは公的補助をまったく受けない民間の教育サービスであり、そのために最適化されていた。

寺子屋の数は数万で、どんな小さな農村にも複数あったという。江戸時代から私的な教育投資が盛んだったのは、家庭では複雑な漢字の読み書きを教えられなかったからだ。教育サービスに学校という入れ物は必要ないので、初期には文字通り寺を借りて僧侶が教え、全員一律に「授業」するのではなく、師匠が寺子(生徒)ひとりひとりのペースに合わせて字を教えた。

それが明治初期の「学制令」で変わり、ヨーロッパをまねた公立学校ができた。その目的は教育サービスではなく軍事教練だったので、フーコーの指摘したように、すべての子供を同じ兵営に集めて訓練したのだ。学校は子供にとっては苦痛だが、それに耐えて試験でいい点をとる優等生がエリートになった。

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