江戸の平和力―戦争をしなかった江戸の250年 (日本歴史 私の最新講義)
『失敗の法則』の仮説は、日本人に根強い部分最適化の歴史的な原因は江戸時代に続いた(世界史に類をみない)長い平和にあるということだが、この平和はどうやって維持されたのだろうか。徳川家が全国を小さな藩に分割して内戦を防いだことはよく知られているが、各藩の中はどうしたのだろうか。

普通は豊臣秀吉の「刀狩り」で兵農分離が行われたと説明されるが、これは疑問である。武士は城下町に集まって住んだので、農民は生活を守るために武装せざるをえず、農村には多くの刀や槍が残っていた。そういう農村や宿場町の治安維持の役割を果たしたのが「侠客」だった。国定忠治や清水次郎長が今もさまざまな物語になって親しまれるのは、そういう「私的な警察」の役割を果たしていたからだろう。

彼らの収入源は賭博などの非合法な手段であり、暴力を独占しようとする武士には弾圧されたが、元をたどれば、武士も戦国時代に成り上がった組織暴力にすぎない。これは武士という大きな組織暴力と侠客という小さな組織暴力の戦いで、今でいう警察と暴力団のようなものだった。

秩序を維持したアウトロー

今の暴力団と同じく、こうした侠客には政治権力に対して反乱しようという意識はなく、「お上」の支配の及ばない民間の秩序を守るものだったので、お上も侠客の存在を認めて「共生」した。侠客は単なるアウトローではなく、国定忠治は天保の飢饉では貧民を救済し、飢饉に備えて溜め池を掘るなど社会事業もした。

こうした侠客は対立抗争を繰り返し、大きなグループが小さなグループを吸収して「街道筋」を支配するようになった。「無宿」と呼ばれるアウトローが抗争しても幕府や各藩は手を出さないので、親分が調停したのだ。

一家の規模は最大でも数百人で大名家の権力を脅かすほどではなかったが、幕末に彼らが「世直し」を行うようになると、幕府はこれを弾圧した。国定忠治も処刑されたが、獄中では体力を鍛え、槍で14回突くまで絶命しなかったという。

こういう伝説が講談や浪花節で語り次がれたのは、密かな反権力の心情に訴えるものがあるからだろう。彼らはそれなりに秩序をもち、それに反するヤクザは抹殺した。その基準となるのは「公儀」の法律や訴訟とは別の義理と人情であり、文字どおり「浪花節」の世界である。彼らが「極道」と呼ばれたのも、それなりの「人の道」をきわめたからだろう。

こういう私的な暴力で秩序を維持するしくみは、シチリア島のマフィアにもみられる。それは公的な警察の補完としては意味があるが、明治以降、警察が全国すみずみまで整備されると力を失った。最終的に勝利したのは、軍事・警察力を独占する国家という組織暴力だった。