帝国大学―近代日本のエリート育成装置 (中公新書)
文学部バイアスの記事が思わぬ反響を呼んでいるので、誤解のないように補足しておこう。私は国立大学に文学部は必要ないと思うが、もっといえば文系学部はすべて必要ない。経済学部の最初の半年ぐらいはすべての学生の必修にすべきだと思うが、それ以外の文系の学問は(文学部だけでなく)役に立たないので、学生をキャンパスに集めて教える意味はない。

それは明治期に帝国大学をつくった伊藤博文も承知の上だった。初期の「東京大学」は開成学校などの専門学校の寄せ集めだったが、1886年にできた「帝国大学」は、ドイツから帰国した伊藤が、当時世界最高のレベルを誇ったフンボルト型大学をモデルにして設立したものだ。

「国家の機関」としての帝国大学

ドイツ型の大学は研究者の養成機関だが、その研究費を「授業料」と称して学生から取る詐欺的なビジネスだった。これはアメリカに輸出されて「大学院」というさらに詐欺的なビジネスを生み、20世紀後半にはドイツは競争に敗れた。日本の帝国大学は、最初からドイツ型の教養主義で、高級官僚の地位を約束する代わりに高い学費を取るものだった。

東京大学の時代には民間に多くの私塾や専門学校があり、東京大学も医学校、工部大学校、駒場農学校などの専門学校を合併してできた「総合大学」だった。そのモデルとする教育はバラバラだったが、ドイツから帰国した伊藤が「大学は国家の機関である」という理念を明確にし、森有礼を文部大臣に任命した。

その卒業生は初期には自動的に高等文官になれた。国家はエリートを選抜して教養で箔をつけ、学生は受験勉強で国家に従順であることを示して高等文官という特権を得る。そして教師は「帝大教授」として高い権威を身につけ、国家の顧問になる――ここで重要なのは専門知識ではなく「学士様」としての権威であり、それは大日本帝国に支えられていた。

しかし江戸時代に高い水準を誇った日本の教育は、国家とは無縁だった。高等教育の元祖は、福沢諭吉が慶応4年に設立した慶應義塾である。大学を「官立」で設立すべきだという森を、福沢は次のように批判した。
生来の教育に先入してひたすら政府に眼を着し、政府にあらざればけっして事をなすべからざるものと思い、これに依頼して宿昔青雲の志を遂げんと欲するのみ。(『学問のすすめ』)
教育を行うにはまず政府の援助が必要だというのは、政府でなければ何も実現できないという思い込みだ。必要なのは個人が自立することであり、国の自立もそれなしでは実現しない。明治国家から排除された福沢は、私塾のような専門学校として慶應義塾を設立した。

帝大モデルから私塾モデルへ

慶応の教育は、帝大のような権威主義とは無縁の「実学」だった。それは「実用的な学問」という意味ではなく、物理学をモデルとする実証主義だった。これは福沢のつくった訳語だが、physicsだけではなく科学全体をさしていた。

福沢は「物ありて然る後に倫あるなり、倫ありて後に物を生ずるに非ず」(『文明論之概略』)、つまり「物理から倫理が生じるのであってその逆ではない」ことを学問の基礎に置いた。これは今となっては当たり前の話だが、帝大の法学部で教えられたのは、法という倫理が国家を支配する「規範の学」だった。

帝大に優秀な学生を奪われた慶應義塾も大学を設置せざるをえなかったが、中心は法学部ではなく、ビジネスに役立つ実学を学ぶ理財科(今の経済学部)だった。それまでの私塾が寄付金で運営されていたのに対して、福沢は月謝を取る方式とした。これは「拝金主義」と批判を浴びたが、人が「自ら労して自ら食らふ」という独立自尊の精神によるものだった。

いま話題になっている高等教育無償化は、大学をすべて「帝大」にしようという時代錯誤である。国家の管理する大学から「イノベーション」が出てくるはずもない。学歴のシグナリング効果がある限り帝大モデルは成り立つが、人的資本は高まらない。帝大は発展途上国だった日本がエリートを養成する役には立ったが、もうその役割は終わったのだ。