きのうは篠田英朗さんに戦後の憲法学の奇妙な歴史についてきいたが、途中で突飛な連想が浮かんだ。宮沢俊義の「8月革命」説がキリスト教の三位一体説に似ており、それを守る東大法学部の憲法学者が聖職者に似ているということだ。

近代の常識では、規範で事実を決めることはできない。たとえば憲法で「地球は太陽のまわりを回るべきではない」と決めても、地球が公転するという事実は変わらない。しかし歴史の大部分では、信仰で真理が決まった。三位一体説は「父と子と聖霊は三つだが一つである」という(8月革命と同じく)支離滅裂な話だが、4世紀以来ずっとキリスト教の正統である。それを信じない者は「異端」として政治的に排除されたからだ。

今でもイスラムでは、法学者は聖職者である。スンニ派とシーア派が戦争するのは、法解釈で真理が決まるからだ。歴史的には、規範と無関係に実験や観察で真理を決める実証主義は特殊な思想だが、カトリック教会も1992年に地動説を認めた。東大の法学者=聖職者が学問的真理を政治的に決める憲法学は、イスラムと同じである。
規範は政治で決まる

三位一体説は、1000年以上にわたって(アウグスティヌスからカール・バルトに至るまで)キリスト教神学の最大の争点だった。これは聖書に根拠がなく、2世紀ごろにいろいろな宗派の妥協でできたものといわれるが、325年のニケーア公会議で正統と認められた。これに対して「イエスは神とは別の人間だ」と考えるアリウス派などは異端とされ、処刑された。

宗教改革でも、三位一体説は変わらなかった。というより多くの異端の中で、三位一体説を守った異端だけが「プロテスタント」として生き残ったというべきだろう。日本人からみると、こんな観念的な問題をめぐって戦争するのは不可解だが、これはキリスト教世界の同一性にかかわる重大な問題だった。

現代でいうと、ニュートン力学の「重力は距離の2乗に反比例する」という法則が成り立たない地域があったら、科学が根底から崩れるのと同じだ。現代人も万有引力の法則を自分で確かめたことはないが、それを信じないと科学技術は使えない。科学もその意味では一つの信仰だが、今のところ事実によって反証されたことはない。

これに対して法律は規範だから、その真偽は事実で検証も反証もできない。「人を殺してはいけない」という規範を事実で決めることはできないのだ。それは多くの人がいけないと思うからいけないので、それ以上の理由はない。議会で決まるルールは、条文という形をとった多数派の政治的意思にすぎない――というのが20世紀末に流行した「ポストモダン法学」である。

しかしこのようなニヒリズムを認めると法の正統性は失われ、何でもありになってしまうので、法的正統性の根拠になるのはケルゼン的な手続きの整合性である。ここでも法が真理を反映しているかどうかは実証できないので、legal positivismを「法実証主義」と訳すのはおかしい。これはpositive law(実定法)の派生語なので、「実定法主義」つまり手続き中心主義である。

こう考えると、学問的真理を政治的に決める憲法学者はポストモダンともいえるが、それを信じる人がいなくなると成り立たない。三位一体説を反証することはできないが、それは誰も信じなくなったのだ。ガラパゴス憲法学者がいなくなると、8月革命説も消えてゆくだろう。