共謀罪は人権と安全のトレードオフだという評論家がいるが、彼らの疑わない人権とは何だろうか。「プライバシー」は人権なのだろうか。「すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」というアメリカ独立宣言は、明らかに証拠のない迷信である。

人間が遺伝的に人権をもって生まれてこないことも明らかなので、それは価値判断だろうが、すべての人に同じ権利を政府が賦与すべきだという根拠はどこにあるのだろうか。天賦人権を宣言したアメリカの憲法は、奴隷の権利を3/5に制限してその売買を認めた。こうした矛盾を最初に指摘したのは、エドマンド・バークである。
私は、各個人が国家においてもつ権限、権威、指揮などを文明社会内の人間の本源的直接的な権利に数えることを拒否する。私の考察対象は文明社会の人間であって、これは慣習によって決定さるべき事柄である。

権利は「契約の束」

バークと同時代のヒュームも述べたように、権利とは定型化された契約であり、契約は(国家とは無関係な)慣習(convention)の明文化である。可能な契約は無限にあるが、特定の契約を「物」として扱うことで扱いやすくする。これはプログラミングでいえば、特定の関数(契約)の集まりを標準化し、オブジェクト(権利)としてカプセル化するのと似ている。

権利を法律として実装して変更不可能にすることは、契約を繰り返し利用可能にし、効率的に執行する上では便利だが、それ以上の意味はない。経済学はこの点について自覚的で、たとえば所有権は、すべての出来事(contingency)が事前に特定できる完備契約の世界では存在しない。

これはマルクスと似ているが、もとはヘーゲルの『法哲学』の論理である。そこでは本質的なものは(私の)所有だが、それは他人による「物の使用」と対立する。このような契約の束を統合して「財産の譲渡」という形で物を移転するのが財産権だ。そして自我は、財産をモデルとして生まれた自己意識である。

つまり所有権も人権も、バークのいう「慣習」でつくられたものであり、先験的な意味はない。「権利のインフレ」に歯止めをかけるには、まず人権という迷信から覚めることが必要だろう。