ジャック・デリダ 動物性の政治と倫理
アゴラこども版で「犬や猫に人権はない」と書いたら「けしからん」というコメントが来たが、定義によって犬猫に人権はない。問題は、なぜ「犬権」や「猫権」はないのかということだ。これはバカバカしい話みたいだが、最晩年のデリダのテーマだった。

彼は最後のセミナー『獣と主権者』でも、人間と動物の差別こそ本質的な問題だという。その境界は自明のようだが、そうではない。日本人にとっては犬猫もイルカも同じだが、自称エコロジストは両者を区別してイルカを人間の同類とし、日本人を「残虐だ」と批判する。

逆に人間の中にも「動物」がつくられる。江戸時代まで「非人」がいた。ヒトラーはユダヤ人を「人間以下の存在」と考えたから大量虐殺したが、その数より人類が殺した犬猫の数のほうがはるかに多い。ユダヤ人を殺すのが犯罪なら、なぜ犬猫を殺すのは犯罪ではないのか、とデリダは問いかける。

道徳的な生き方は餓死しかない

その理由は、われわれが人間だからである。われわれが犬だったら、人間を殺してもいい。それ以外の理由はない。「動物愛護」というのは、人間のペットだけを愛護して、いらなくなったら捨てるという人間中心主義に他ならない。これはデリダのいう「ロゴス中心主義」と一体である。

これが主権と結びつくのは、デリダ独特のアクロバティックな論理である。主権とは、国家の中の動物的な部分を抑圧して「ロゴスによる統治」をよそおい、被支配者である国民が選挙によって「主権者」になると思わせる「組織された偽善」であり、ロゴスは人間と獣の境界を画し、暴力の対象を獣(とみなされる者)に限定する概念装置なのだ。

では「犬権」や「猫権」はあるのか。これは荒唐無稽な問いにみえるだろうが、人間中心主義を脱構築すると、自明ではない。デリダはもちろん「権利」という概念が近代国家に特有のフィクションであることは知っているが、その上で「人間と動物との差異は絶対的なものではありえない」という。人権を認めるなら、犬権も猫権も存在する。後者が存在しないなら、前者も存在しない。

彼は「動物が人間の欲求のために畜群として大量飼育されながらも絶滅される運命にある、そのような邪悪なやり口によって科せられるジェノサイド的責め苦が存在するのです」とのべて、ベンサムの「問題は彼らが[殺されるとき]話せるかどうかではなく、苦痛を感じるかどうかだ」という言葉を引用する。

鯨が殺されるとき苦しむとすれば、牛も豚も鼠もゴキブリも、殺されるときには苦しむ。さらに「すべての生命を尊ぶ」ことを原則にするなら、菜食主義でさえ無罪ではない。人類は農耕によって地球の生態系を破壊してきたので、何も食わないで餓死することが唯一の道徳的な生き方だ。人間というのは、そういう根本的な矛盾を抱えた存在なのである。