Why the World Does Not Exist
世界が存在することは自明だが、カント以来の近代哲学はこれを証明できない。カントは「物自体」の存在を前提しただけでその証明を放棄し、ヘーゲル以降は存在を「括弧に入れて」そのありようを論じるのが哲学の仕事になった。それに対して「世界は存在する」と主張したのが唯物論だが、素朴実在論は認識論として成り立たない。

ヘーゲルの観念論を徹底するとニーチェのいうニヒリズムになり、超越的な存在を否定する「言語論的転回」が20世紀の哲学を支配した。ポストモダンはその極限形態だが、この種の「新ニーチェ派」にはみんな飽きた。そこで出てきたのが、ポストモダン的な「相関主義」を否定して、世界は主観に依存しないで存在すると主張する新実在論である。

――と書くとむずかしそうな話にみえるが、本書はそれをやさしく解説して、欧米でベストセラーになった。「世界は存在しない」というのは奇妙な表現だが、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の冒頭の「世界は事の総体であって物の総体ではない」という定義による。

ウィトゲンシュタインは「事の総体」としての世界が一義的に存在すると想定したが、そういう世界は存在しない。なぜなら自動車や自転車などの物が一義的に存在しても、「自動車は自転車より大きい」とか「自動車は自転車より速い」といった事(命題)は無限に多義的なので、そのすべてを含む絶対的な世界は存在しないからだ。

「自然主義」はなぜ成功したのか

この点で本書の発想はメイヤスーとは逆だが、彼も世界は本質的には偶然であり、その一つの可能性が実現しただけだと考える。この意味では、どっちも世界を無限に多様な事の集合と考える廣松渉の「事的世界観」に近く、よくも悪くも大して斬新な思想ではない。

ただ新実在論が昔の素朴実在論と違うのは、ポストモダン的な多義性を突き詰めて、物理的な実在にも特権性を認めないことだ。カント哲学の目的はニュートン力学の正当化だったので、時間・空間などの先験的カテゴリーが存在すると想定したが、ガブリエルはこれを明示的に否定する。

たとえばシュレーディンガー方程式の反証はみつかっていないが、それが完全に検証されたわけでもない。私がアイスクリームを食って「うまい」と思う感覚を量子力学で説明することは、原理的には可能だが現実には不可能だ。それは感覚という「対象領域」が違うからだ。

ガブリエルは世界と区別して物の総体を「宇宙」と呼ぶが、同じ宇宙にも無限の領域を設定できるので、ハイデガーのいうすべての領域の領域としての世界は無限に存在する。つまり特権的な「世界」は存在しない。

だから問題は世界が存在するかどうかではなく、本質的には無限に多様な世界が、なぜこのように一様に見えるのかということだ。その原因をガブリエルは、宗教や倫理や美意識に求めるが、ここでも特権的な世界観は存在しない。だとすると物理的な世界がすべての人に共通に見えるのはなぜか?

絶対知なきヘーゲル主義

これについてのガブリエルの答は、彼のいう「自然主義」や「一元論」を批判するだけに終わっている。たしかに世界が一元的な法則で説明できるという自然主義も一つの信仰にすぎないが、それは技術的に実用化できるので、キリスト教と物理学は同格ではない。前者で飛行機を飛ばすことはできないが、後者はできるからだ。

逆にいうと、違いはそれしかないともいえる。工学的に応用できることが特権的な意味をもつわけではない。キリスト教でも人々が同じ神の存在を信じれば、外部に対してともに戦うことができる。人間のコントロールできる対象領域では、「奇蹟」は必要ない。

自然主義という宗教が成功したのは、人間のコントロールできない領域で成功したからだが、それはなぜかというのはむずかしい問題である。その理由は「世界が物理的に一様でなければ宇宙を見ている人間が存在しない」という人間原理しか考えられない。

本書はこの問題を避け、「科学もキリスト教も同格の宗教だ」と論じる。違うのは、かつてキリスト教が占めていた地位を今では科学が占めていることだ――これはメイヤスーの否定する「相関主義」を徹底したもので、ガブリエルは逆にすべての感覚は実在するという。

これはヘーゲルがカントを批判した論理と同じだ。彼はカントの「物自体」は感覚的な認識から逆算したものだと批判し、存在するのは「現象」だけだと考えた。それでは無限の存在が許容されるので、その中から究極の絶対知としての神を導くのが弁証法というトリックだが、さすがにこれはもう古い。

このためガブリエルの新実在論は「絶対知なきヘーゲル主義」ともいうべき中途半端なものになり、最後は「人生はコメディだ」とか「無限の可能性に自由がある」といった腰砕けになってしまう。それはヘーゲルも遭遇したアポリアであり、永遠に解決できないのだろう。