カント哲学の奇妙な歪み――『純粋理性批判』を読む (岩波現代全書)
カントは「ドイツ観念論」の元祖とされるが、著者もいうようにこれは奇妙だ。『純粋理性批判』はその逆、つまり世界には物自体しか存在しないという唯物論だからである。彼の目的は観念的な認識論ではなく、ニュートン物理学を正当化する(今でいう)科学哲学だった。

だが、その目的は達成できなかった。すべての人間がこの空間的・時間的な世界を同じように理解できる合理的な理由はないのに、なぜすべての人が一義的に理解しているのか。彼の答は「それは人々が世界を空間と時間という同一の先験的カテゴリーで構成しているからだ」というものだが、これは世界の座標系を座標系で説明する循環論法である。

これは多くの人が批判した問題だが、その答はいまだにない。最近の「思弁的実在論」も袋小路に迷い込んでいる。私はスコラ神学に、そのヒントがあると思う。すべての人々にとって世界が3次元空間と不可逆な時間で構成されているのは偶然だが、そうでないと人間が存在しえないのだ。

「物自体」という神学的な存在

これはドゥンス・スコトゥス以来ずっと議論されてきた問題である。スコトゥスのように先験的な実在を前提にしてその認識を論じる立場をカントが「形而上学」と呼んだので、今では無視されているが、カントも結局、スコラ神学と同じアポリアに逢着した。それは経験から出発すると、実在には永遠にたどり着けないという問題だ。

カントが「独断のまどろみ」から覚めたきっかけになったヒュームの認識論は、それを割り切って、実在なんかなくてもいいと考えた。太陽がきのうまで昇ったからといって、あすも昇ることは証明できない。それは経験的な推測にすぎないが、論理的には偶然の世界が、なぜ一義的に決まっているのか。ニュートンの単純な方程式が全宇宙に適用できるのはなぜだろうか。

これが20世紀の哲学の直面した問題である。フッサールはそれを相互主観性と呼び、人々の主観が「生活世界」の中で一つのパターンに決まっていくと考えた。これは言語や文化には当てはまるが、物理学には当てはまらない。世界の人がすべて万有引力の法則を否定しても、それがなくなることはないからだ。

多くの哲学者がこの難問に取り組んだが、結論はスコトゥスと同じく、世界は先験的に一つに決まっていると考えるしかない。彼はそれを神の存在証明だと考えたが、別に創造主がいなくてもかまわない。無限に多くの「試行」の中で、この宇宙と地球ができたと考えればいいのだ。

思弁的実在論も結局、物理学の人間原理と同じ結論に到達している。メイヤスーはこれを集合論で論理的に導こうとしているが、そのためには「Aは非Aではない」といった論理をすべての人間が共有している必要がある。これも必然性がなく、進化の中でそういう論理を共有しない(統合失調症などの)人が淘汰されたと考えるしかない。

要するにカントの問題は、哲学的には解決できないのだ。物自体は存在するということ以外はわからない神学的な存在であり、それを生み出しているのは人間である。この意味で現代の物理学はカントとは逆に、天動説のようなコペルニクス反革命を起こそうとしているのかもしれない。