昭和戦前期の政党政治―二大政党制はなぜ挫折したのか (ちくま新書)
新聞が戦時中に競って戦意昂揚記事を書いたことはよく知られているが、1930年まで「軍縮派」だったことは意外に知られていない。ロンドン軍縮会議で日本が補助艦保有量を対米69.75%に制限されて6月に帰国したとき、新聞はすべてこれを歓迎した。その後の勇ましい論調から考えると奇妙だが、本書によると新聞の論調は二転三転したようだ。

1920年代まで新聞は軍縮派だった。第1次大戦で「戦争はもうこりごりだ」と思った世界の世論は絶対平和主義に傾いたので、日本の新聞もそれに従った。その後、軍部の力が増すと新聞は「艦隊派」に傾き、軍縮会議では「対米7割が最低線だ」という海軍の方針に同調したが、その防衛ラインは会議で破られた。

東京朝日の緒方竹虎は当初は艦隊派だったが、途中から対米7割は無理だとわかると、引っ込みがつかないので「会議を成功させるために7割にこだわるな」という論調に変更し、各社も横並びでこれにならった。それは単なる世論への迎合だったので、翌年満州事変が始まると「大旋回」したのだ。

「平和主義」の尖兵が戦争に舵を切る

その先頭を切ったのは、東京日日新聞(毎日新聞の前身)だった。1930年3月に軍令部長の加藤寛治が浜口首相に会って条約の受け入れに反対したとき、東京日日は加藤を激励した。その後も外務省が交渉内容を軍令部に秘すべしという「密電」をスクープするなど、条約を壊そうと工作した。

そして4月に起こった統帥権干犯問題の中心も大阪毎日だった。これは北一輝の造語だといわれ、それを鳩山一郎が帝国議会で取り上げた。「政府が軍縮条約で軍の予算を決めるのは統帥権の干犯だ」という論理は、軍部を制約していた予算の決定権を政府から奪う危険な議論だったが、毎日はそのお先棒をたついだのだ。

満州事変が始まってから、最強硬の論陣を張ったのも東京日日と大阪毎日で、これによって毎日は大きく部数を伸ばした。図のように、朝日と毎日は競って戦意昂揚記事を書き、それによって新聞の部数は倍増したのだ。



今のマスコミの「安保反対」には当時の軍縮派ほどの論理もなく、終戦直後の一時的な厭戦気分でつくられた憲法を70年後も守っているだけだ。「第2次朝鮮戦争」が始まったら、1931年のようにマスコミが「大旋回」することは確実である。