Park_Yeol_and_Fumiko_Kaneko国会はまだまだ森友騒動が続く。違法行為の証拠もないのに国有地の払い下げに首相が関与しているかのような印象操作が続けられ、学校法人への寄付まで問題にされ、絵になる話題が先行する劇場型政治だ。

こういう傾向は、今に始まったことではない。1926年に起こった朴烈怪写真事件は、大逆罪(天皇暗殺未遂)で逮捕された朝鮮人のアナーキスト朴烈が、東京地裁の取調室で愛人とともに撮影した写真が流出した事件だが、政友会は若槻内閣の「監督責任」を追及した。

これは政権と無関係なので、若槻首相は最初は軽視していたが、扇情的な写真が新聞・雑誌に掲載されると、政治家も普通選挙を前にして政策より大衆受けするスキャンダルに関心をもち、おりからの金融恐慌とあいまって若槻内閣は総辞職した。これが政党政治が行き詰まるきっかけだった。

写真を裁判所から持ち出したのは、北一輝だといわれる。この事件で天皇というシンボルの大衆動員力を知った彼は「天皇による革命」をくわだて、その後もテロで政権をゆさぶった。そして最大の「劇場」は、1931年に始まった満州事変だった。
満州事変で「大旋回」した新聞

1931年5月には、東京朝日新聞で「行財政整理座談会」が行われ、緒方編集局長の司会で、井上準之助蔵相、東京帝大教授の美濃部達吉が出席して軍縮を求めるキャンペーンを張った。これに対して陸軍省の幹部が「陸軍の出ていない欠席裁判だ」と抗議したが、緒方局長は逆に陸相官邸にどなり込んだという(『昭和戦前期の政党政治』)。

ところが31年9月18日に満州事変が起こると、大阪朝日の社説はこれを「自衛権の行使」として擁護し、10月1日には主筆の高原操が署名入りで「満州国の独立」を肯定した。11月には『満蒙の正しい知識』という小雑誌を発行して、中国の「邪悪と非道を排撃」した。最強硬派は東京日日新聞で、満州事変は「作・関東軍、演出・東日」といわれた。

その動機は単純である。満州事変で、東京朝日・大阪朝日の部数は合計143万部から182万部に激増した。在郷軍人の不買運動も起こったが、それより軍縮派だった高原が「情勢が急迫しており論争の時期ではない」と方針転換したことが大きい。大規模な「劇場」のスペクタクルと、そこで戦う息子の安否を知りたい親心から、人々は競って新聞を読んだ。

朝鮮半島で軍事衝突が起こるのは時間の問題だが、そのとき新聞が満州事変のときのように「大旋回」することは確実だ。北朝鮮の側につくメディアなどありえないのだから、朝日がどういうキャンペーンを張るかは明白である。