豊洲の騒動でおもしろいのは、ワイドショーのコメンテーターが「石原慎太郎は悪いやつだ」という価値判断から「豊洲は危険である」という事実を導くことだ。これは今では笑い話だが、17世紀まで価値から事実が導けないことは自明ではなかった。

ニュートンは『プリンキピア』の序文で「本書の目的は神が天地創造された意図をさぐることである」と書いた。彼の神学理論は余技ではなく、量的には物理学の論文よりはるかに多い。彼は(無神論に近い)理神論ではなく、合理主義的なアリウス派だったらしい。

東洋でも、儒教は「天理」という社会的な倫理から自然界の事実を導いた。福沢諭吉はそれを惑溺と批判し、「物ありて然る後に倫あるなり、倫ありて後に物を生ずるに非ず」と書いた。それが彼のつくった「物理」という言葉の意味だが、ニュートンはキリスト教という倫理にもとづいて完璧な物理学を構築した。それはなぜ可能だったのだろうか?

まぐれ当たりだ、というのが現代の物理学の答である。重力が距離の2乗に反比例すべき論理的な必然性はないが、今のところ太陽系の中では例外は見つかっていない(銀河系全体ではあやしい)。そのもっともらしい理由は、重力がそれより大きくても小さくても地球が太陽のまわりを公転しない(したがって人類も存在しない)ということである。

続きは3月13日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。