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現在の大学は、ウォーラーステインも指摘するように中世のuniversityとは無関係だ。それはuniversalとも無関係で、uniは「学生が一つの組合で職業知識を得る専門学校」という意味だったが、そのうち教師のギルドになり、中世が終わると消え去った。19世紀のドイツでできた大学は、これを名前だけ継承した新しい教育機関で、英米の亡びかけていた神学校も、ドイツ的な教養主義に転向して生き残った。

日本の高等教育は、明治初期は語学中心の専門学校の時代だったが、次第に官吏養成機関である帝国大学を中心とするドイツ型になった。19世紀のドイツでは、フンボルトがベルリン大学を創設し、大学はプロイセン国家の中核に位置づけられた。これは研究機関としての大学を、教育機関と称して国家が助成する制度だった。

ここでフィヒテやヘーゲルなどが「ヨーロッパの普遍的な知」としてのリベラル・アーツを広め、それが欧米の大学の新しいビジネスになった。戦時体制で帝大を頂点とする大学中心の学制に変更され、ドイツ的教養主義が戦後も続いているため、日本の大学は実務的な知識をほとんど教えない。大衆化とともに理系や医系なども合併した「総合大学」になり、アメリカ型の大学院も設置してごちゃ混ぜになった。

これは学生の求める教育と大きく食い違っている。大部分の学生は職業的なスキルを習得したいと思っているが、大学側は「国際情報学部」のような漠然とした学部を新設し、教師は自分の専門分野の話だけしている。准教授以上は自動的にテニュア(終身在職権)が得られるので、研究にも教育にも競争がない。
ドイツ型教養主義は19世紀の遺物

文部科学省はハーバード大学のようなリベラル・アーツ中心の大学が世界標準だと思い込んでいるが、こういう超一流校は例外である。それは高い学費と寄付金で一流の研究者を集め、大学ランキングの上位に入ることで全世界から優秀な学生を集めるビジネスモデルに特化している。

こういう超エリートはジェネラリストなので、ドイツ型の「帝王学」でいい。それは明治時代の帝大が職業訓練をしなかったのと同じである。エリートに必要な実務知識は法律ぐらいで、あとは何を習っても現場で働かないので意味がない。今でも旧帝大ぐらいのレベルは教養主義でもいいが、それ以外の国立大学とすべての私立大学は職業教育に徹すべきだ。

今から日本で「スーパーグローバル大学」をつくろうというのはナンセンスだ。終身雇用を続ける限り、日本の大学の研究水準は世界の一流にはなれない。アメリカの一流大学では、テニュアは教授の2割程度で、それも絶対の身分保証ではない。世界的に「大学バブル」が問題になり、ユニバーシティからカレッジへの転換が進んでいる。

今ごろから「高校無償化」だとか憲法改正で教育無償化などというのは、時代錯誤もいいところだ。欧米では高等教育への公的投資が浪費だという通念が成立しているので、OECDも幼児教育への投資を勧告している。日本も明治期のように多様な教育のニーズに対応したいろいろなタイプの学校を育てる必要がある。