天皇と日本人
本郷和人氏が指摘するように、実在が確認されている天皇のほとんどは生前退位したので、終身在位は日本古来の伝統ではないが、男系天皇も伝統ではない。その何よりの証拠は、天皇家の起源である天照大神が女神であることだ。もちろんそれは神話上の人物だが、皇統が男系なら、神話で男系の正統性を語るはずだ。

ところが天照大神には、性別の記述がない。そして本書によれば、雄略・欽明・皇極・天智・天武・持統天皇についても、『日本書紀』や『万葉集』には性別の記述がない。このうち皇極・持統天皇は女帝と推定されているが、天智天皇が女帝ではないという証拠はないのだ。

これは少なくとも『日本書紀』の時代の天皇家には、男系の伝統がなかったことを示す。というか、ジェンダーを意識していなかったと考えるのが妥当だろう。古代の天皇は一種の超越的な存在だったから、男性とか女性とかいう身体性はなかった、と著者は推定する。

これは天皇が象徴になった現在も同じである。象徴というのはシニフィアン(記号)だから、そのシニフィエ(意味)との関係は恣意的で、シニフィアンの物質的な属性には依存しない。たとえばこの記事を黒い文字で書いても赤い文字で書いても内容は変わらないのと同じく、天皇という記号が男か女かはその正統性とは無関係なのだ。
「天皇教」とナショナリズムのずれ

したがって著者もいうように、保守派が執着する男系天皇には意味がない。天皇の本質は、それを権力から切り離して利用する(丸山眞男のいう)日本型デモクラシーである。それは故郷を愛するような素朴な愛国心(patriotism)とはいえるが、西洋的な意味でのナショナリズムとは違う。

ナショナリズムは国民=国家という意識で、その主権者が国家を統治するという思想だ。このときの主権者は国王であっても国民であってもいいが、本源的な(ジャン・ボダンの)主権者は国王であり、国民主権という奇妙な制度はフランス革命以降の一部の国だけだ。合衆国憲法でさえ、国民主権とは書いていない。

日本には江戸時代までナショナリズムはなかったが、ペリー来航からわずか15年ほどで統一国家をつくったのは驚異的だ。もちろんそれ以前から国家意識の芽生えはあったが、何といっても天皇というダミーがあったのは大きい。長州藩士もそれを「ギョク」と呼んで利用した。「万世一系の天皇」という言葉は岩倉具視がつくったものだ。

だから天皇は国王というよりローマ法王に近いが、「天皇教」としての国家神道には中身がなく、古事記とか日本書紀のような神話しかない。それを万世一系の天皇を統治者とする明治憲法で制度化したため、大きなねじれができてしまった。それをイギリス型の立憲君主制にするのがベストだったが、伊藤博文や井上毅がプロイセンの皇帝をまねようとしたため、国家意識が混乱した。

それをさらに混乱させたのが新憲法の第1条だが、ほとんどの人は(左翼も含めて)それがおかしいという意識もなく、第9条だけを問題にしている。右翼は男系や終身退位を問題にしているが、これは「黒いインクで書かない記事は認めない」というような話で、守るべきものを取り違えている。

この「戦後の国体」の矛盾を認識していたのは丸山ぐらいだが、今は国家とか主権という問題そのものが消えようとしている。しかし左翼と右翼に共通に受け継がれている「無責任の体系」は、このナショナル・アイデンティティのゆがみから生まれたものだ。それを自覚することからしか、本質的な天皇論議は始まらない。