185px-Fukuyama-han_hansatu1730アゴラこども版で書いた「ゾンビ企業」の問題は、経済学ではソフトな予算制約(SBC)としておなじみだ。この言葉をつくったコルナイによると、これが社会主義の崩壊した最大の原因だという。SBCが厄介なのは、問題が薄く広く分散するため、被害が見えにくいことだ。今の日本の政府債務もこれに似ている。

江戸時代の各藩の財政も1700年ごろ行き詰まっていたが、そこから幕藩体制が崩壊するまでに150年以上かかった。ただ当時の民衆は、徳川の武士が薩長の武士に「大政奉還」しただけで、大きな変化とは思っていなかった。それが革命になったのは、1871年の廃藩置県によってである。

幕藩体制の中核だった各藩が「自発的に」権力を放棄したのは、世界史にも類をみない革命だった。その最大の原因として多くの歴史家が指摘するのは、各藩の財政が行き詰まっていたことだ。1870年の段階で各藩の「政府債務比率」は藩の収入の約3倍に達しており、権力をもつメリットはなかった。

新政府は各藩の債務を「肩代わり」すると称して、藩札(写真)を非常に低い為替レートで円に切り替え、「旧藩債償還法」で債務の大部分を踏み倒した。このため巨額の藩債を保有していた大坂の豪商は破産し、江戸の札差も没落した。同じ手は、これからも使えるかもしれない。
革命は1週間で実行された

日本の歴史上、内発的に「革命」を実現した唯一のケースとして知られる明治維新は、主観的にはこのような「漸進的な責任の肩代わり」だった。それを戦略的に考えた指導者がいたわけでもない。廃藩論を1871年7月に最初に唱えたのは、山県有朋(正確には彼の部下)だった。

山県の回顧録によると、彼が西郷を訪ねて「廃藩置県に着手されてはどうであろう」と持ちかけたところ、西郷はその場で「実にそうじゃ。それはよろしかろう」と答えたという。山県が「是は血が出まするが、その覚悟をせねばなるない」というと、西郷は「我が輩の方はよろしい」と同意したという。

西郷はその日に大久保利通を訪ねて廃藩置県の計画を話したところ、大久保は「今日のままにして瓦解せんよりは寧ろ大英断に出て瓦解したほうがよい」という理由で、これに同意した。これは当時、彼らのやろうとしていた中央集権化の計画が、各藩の反対で難航していたので、藩そのものを廃止すればいいという短絡的な発想だった。

廃藩置県の詔書が出されたのは、なんと西郷と大久保の合意の1週間後である。それは内乱を覚悟した決定だったが、実際にはあっけなく実行されてしまった。当時それだけ各藩の財政は逼迫しており、大名の地位は守る代わりに徴税権を中央集権化するという乱暴な革命が、ほとんど抵抗なく終わった。最大の反抗は皮肉なことに、西郷の起こした西南戦争だった。

この歴史は、日本社会が大きく変化する条件として何が必要かを示している。第1にエリートの中で「このままではだめだ」という危機感が共有され、その借金を踏み倒して責任を負う別のリーダーが出てくることだ。

第2に、新しいリーダーは旧体制のエリートの既得権を守ると約束しなければならない。実際には既得権が守られたのは藩主だけで、ほとんどの武士は失業したのだが、それは「空気」が変わってしまえば何とでもなる。

この点で今の日本は、政治家に危機感がない点でまったく異なる。それは「ネズミ講」で問題を先送りできるためだから、借金を踏み倒してハイパーインフレを起こす「革命」も、意外に悪くないかもしれない。