井上毅と明治国家
篠田英朗氏の「戦後日本の国体」という言葉は日本の戦後史の矛盾を表現しているが、本家の「国体」を提唱したのは会沢正志斎などの後期水戸学だった。これが尊王攘夷に受け継がれて、吉田松陰のような暴力革命の思想になった。

明治憲法や教育勅語に代表される国体を設計したのは井上毅だが、彼は伊藤博文の「黒子」に徹したため今日ほとんど知られていない。本格的な研究書も1983年の本書が最後だが、彼の「国体」思想は水戸学のようなファナティックな皇国史観とは異なる合理主義だった。

明治国家の国体にも、戦後と同じような二重構造が含まれていた。明治憲法に定められた「顕教」は西洋的な立憲国家だが、井上がそれを通じて実現しようとした「密教」は儒学的な徳治主義だった。彼はプロイセン憲法に独特の「ひねり」を加えて両者を統一しようとしたが、それが結果的には明治国家の暴走の原因になった。
西洋的な装いの儒学思想

井上は熊本県の細川藩の下級武士の子として1844年に生まれた。当時の学問といえば儒学なので、彼も自分の信条を「朱子学」だと表現していた。もちろんこれは日本的に解釈された朱子学なので、韓非子や管子などの法家思想の影響もあった。

彼は岩倉使節団に司法省随行員として同行し、当時としては世界最先端の西洋の知識を学んだ。その圧倒的な国力を見て、彼は「日本が西洋と戦争したらひとたまりもない」という危機感と「西洋のような制度を取り入れるほど日本は民度が高くない」という信念をもって帰国した。

法律の知識については彼にまさる者がいなかったので、多くの法令を起草したが、それはほとんど既存の慣習を追認するものだった。憲法を制定するときも、福沢などの交詢社案が英米型の立憲主義だったのに対して君主中心の制度設計を押し通し、明治14年の政変では大隈を政権から追放した。

明治憲法を起草したとき、彼のモデルとしたのはプロイセン憲法だったが、そこには決定的な違いがあった。交詢社案は議院内閣制で、伊藤博文の原案(夏島草案)でも内閣が政府の中心だった。それに対して井上は強く反対し、内閣を憲法から削除すべきだと主張した。

井上が恐れたのは、天皇と政党という二つの権力が並立し、法律や予算が成立しなかった場合に天皇の責任が問われて「革命」が起こることだった。それは列強の侵略を恐れて国家の統一を急ぐためだったが、結果的にはこのときの彼の制度設計が、各官庁がバラバラの官僚機構を統括する内閣が弱く、元老が束ねる「裏の国体」をもたらした。

このような制度設計はプロイセンともフランスとも違い、井上の考えた「国体」の基礎にあったのは儒学の徳治主義だった。これは日本的に解釈された朱子学だが、それを西洋的な装いで隠したため、欠陥がわかりにくくなった。それを理解していたのは、晩年に憲法を改正しようとした伊藤だけだったのではないか。