梁啓超――東アジア文明史の転換 (岩波現代全書)
中国という言葉は昔からあったのではなく、はっきりした語源がある。これは梁啓超が清朝の迫害を逃れて亡命した横浜で、1902年に創刊した『新民叢報』で「祖国に国名がないことを恥じる」として、すべての王朝と国民の総称としてつくった造語である。

「天下国家」という言葉は漢語だが、ここで実在するのは天下であり、国家はそれを支配する皇帝の私的な家だった。近代的な意味でのnationは中国にも日本にもなかったが、日本は明治以降の近代化で西洋に学び、立憲君主国をつくった。梁はそれを学び、祖国に逆輸出したのだ。

「中国」が国名になったことでもわかるように、彼の影響力は絶大だった。清末の混乱を逃れて日本に留学した人々は、20世紀最初の10年で10万人近く、進士(科挙の合格者)3000人をはるかに上回った。科挙が廃止され、知識人の勉強する場は日本しかなかったからだ。

その留学生の中心が梁で、彼の出版する雑誌は中国に密輸入され、孫文や毛沢東などの政治指導者に圧倒的な影響を与えた。国民党も共産党も、梁の政治理念を実現する党だったといってもよい。その理念は、バラバラになった中国を一つにまとめて立憲政治を実現する国家主義だった。
亡命者が清朝の近代化プランを代作した

中国では、遊牧民族と漢民族の戦争で勝ち残った政権が民衆を搾取した。ただ露骨な暴力だけで政権は維持できないので、古典を暗記した官僚が、字も読めない民衆を指導するのが中国の政治だった。ここでは皇帝の私的な暴力によって民衆の私有財産を没収するので、「公」の概念はなかった。それが梁啓超の見抜いた中国の本質的な欠陥だった。

それは日本も同じだったが、伊藤博文は西洋の制度を丸ごとコピーして西洋型の国家を急造した。このとき岩倉使節団で、1年半もヨーロッパ各国を訪問したのは有名だ。清朝でもこれをまねて、1905年に「憲政使節団」を日本とヨーロッパに派遣したが、半年しか時間がなかったので、1ヶ月以上を船旅にとられ、使節団のレベルも高くなかったので、報告書が書けなかった。

そこで使節団は、驚いたことに梁啓超に報告書の代作を依頼した。もちろん彼は清では犯罪者であり、ヨーロッパにも行っていないのだから、想像で書くしかなかったが、梁は2ヶ月で20万字もある報告書を書き上げ、これが清朝の改革のモデルになった。それは中国近代化の道を示すもので、中華民国にも影響を与えた。

ただ梁は「革命」には反対で、清朝の改革によって立憲政治は可能だと考えていた。日本でいえば福沢諭吉が公武合体論だったのと似ているが、尊王攘夷のように中国でも国民党が革命勢力として成長すると、梁はそのアドバイザーになった。

彼の描いた近代中国のプランは日本の立憲君主制から天皇を引いたようなもので、よくも悪くも常識的なものだった。隣に日本という成功モデルがあるので、それを輸入しようと考えたのは自然で、日本から帰国した多くの知識人も(孫文を初め)梁の立憲政治を支持した。

彼の立憲政治を破綻に追い込んだのは、日本軍の侵略だった。彼が没した1929年ごろから日本軍は満州に利権を築き、その権益を守ると称して満州事変を起こし、南下して国民党を消耗させた。その最大の勝者は、中国共産党だった。毛沢東の思想は、陳独秀などの国民党左派の流れを汲むものだったが、それは彼の独裁制に変貌してゆく。日本をまねて近代化しようとした中国の希望を、日本軍が打ち砕いたのだ。