憲法誕生: 明治日本とオスマン帝国 二つの近代
日本とオスマン帝国は、19世紀のほとんど同じ時期に同じような対外的な脅威にさらされ、近代化を迫られたが、両国のたどった運命は対照的だった。日本は名目的な天皇を立てて国家を統一し、議会の弱い憲法をつくったのに対して、オスマン帝国ではスルタンの専制権力が強いため、その権力を制限する議会をつくった。

日本では不平士族や自由民権運動が強かったため、それを抑えるためプロイセンをまねた行政中心の憲法をつくった。井上毅は議会が反政府勢力の拠点となることを恐れ、議院内閣制をとろうとした大隈案の憲法を排除し、明治14年の政変で彼を政権から追放した。

オスマンにはもともとイスラム法があるため、それに西洋の法律を接合する形で憲法がつくられた。立憲議会制を要求する「新オスマン人」が西洋の法制度を学び、改革を進めたが、スルタンの権力を守ろうとするオスマン帝国の高官との権力闘争が続いた。改革派はクーデタでスルタンを退位させたが、スルタンは憲法を無視して専制政治を行ない、改革派の大宰相ミドハトを追放した。

こうして日本では議会の勢力を抑える「行政国家」ができたが、オスマンでは混乱が続き、西欧やロシアの軍事介入で近代化が遅れ、第一次大戦で帝国は解体されてしまう。その原因としては地政学的な位置の違いも大きいが、イスラムが普遍主義だったことが、かえってヨーロッパに支配される原因になったという。

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