キャプチャ
このツイートがゆうべから反響を呼んで、いろんなフォローがついたが、傑作は「千葉雅也のアンチ・エビデンス論について」という解説だ。それによれば、彼の文章はこんな調子らしい。
分身から分身へと移ろう不安のマゾヒズムを再起動させること。すなわち、あらゆることがあらゆるところに確実に届きかねない過剰な共有性の、接続過剰のただなかで、エビデンスと秘密の間を揺らぐ身体=資料体を、その無数の揺らぎの可能性を、ひとつひとつ別々の閉域としてすばやく噴射する。柑橘系の匂いで。
難解な文章には2種類ある。たとえばハイデガーの文章は、本質的にむずかしい問題を論じているのでどう書いても難解だが、この文章は書いた本人も何を書いているのかわかっていない。彼はドゥルーズを論じた著書も出しており、こんな悪文で数百ページ埋めるのは特異な才能だが、この手の文章は私の学生時代には流行した。
人生はゼロが無理数=不合理であるような微積分学として定義できるでしょう。この式はほんのイメージ、数学的隠喩です。私が「無理数=不合理」と言うとき、何も私はある種のはかり知れない情動の状態を指しているのではなく、正確に虚数といわれているものを指しているのです。
これは『知の欺瞞』に引用されたラカンの文章だが、意味不明なだけでなく、無理数と虚数を混同している。こういう無知を衒学的にごまかすフランス的悪文は80年代で終わり、最近の思弁的実在論などは――英米が中心になったこともあって――普通の散文で書かれている。思想と称して思いつきを文学的に飾るレトリックは、もうファッションでさえないのだ。

続きは6月27日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。