昭和史の決定的瞬間 (ちくま新書)
民進党の江田憲司氏がこう書いている。
国債は、子や孫たちへの「借金のつけ回し」、ってよく言われますよね。我々世代は将来の世代に借金を残しちゃいけないんだと。でも、ちょっと考えれば、これっておかしいって思いません? あなたが国債を買えば、それは「財産」でしょ。
1935年に高橋是清が赤字国債の発行を減らそうとしたとき、陸軍も「国債は国民の債務なると共にその債権なるを以て何ら恐るるに足らず」と反対し、高橋は暗殺された。江田氏は、二・二六事件の青年将校の同志らしい。

しかし1930年代を軍部独裁の「暗い谷間の時代」と思うのは間違いだ。30年代前半には、民政党の斉藤隆夫が「粛軍演説」で軍を批判し、普通選挙で無産政党などの「民主勢力」が躍進した。日本を戦争に引きずり込んでいったのは、「国家改造」のために陸軍に協力した無産政党だった。資本主義は、彼らの共同の敵だったのだ。

その「決定的瞬間」は、1937年1月に日中戦争を阻止するため、民政党が政友会と「大連立」して首相に擁立した宇垣一成内閣が「流産」した事件だったと著者はいう。戦争準備を進めていた参謀本部の石原莞爾などの「陸軍中堅層」が、戦争拡大に反対する宇垣内閣に陸相を出さなかったため、組閣できなかったのだ。

これに代わってできたのが、民政党も政友会も閣僚に入れない「挙国一致」の林銑十郎内閣だった。その中核は赤字国債で軍備を拡張する陸軍だったが、無産政党も(民進党のように)これに翼賛し、全政党を解散する大政翼賛会につながってゆく。
日中戦争への最大の岐路

「歴史にifは無意味だ」といわれるが、これは大きなifだった。当時は陸軍が満州で対ソ戦の準備をする一方、華北分離工作で南下を始める二正面作戦をとろうとしていた。これを議会で批判したのが斉藤の粛軍演説であり、政友会も民政党に協力して軍備拡大を止めようとした。

このために彼らが担ぎ出したのが、陸軍大将で朝鮮総督だった宇垣一成だった。彼は陸軍大臣だったとき軍縮に協力したハト派だったため、元老だった西園寺公望から指名され、天皇の大命が降下した。しかし石原が陸軍省の首脳に陸相を出さないよう説得したため、宇垣は組閣できなかった。

このとき宇垣は首相と陸相を兼務しようとし、湯浅内大臣に勅命を下してもらうよう頼んだが、湯浅は「無理をなさると血を見るような起こるかもしれぬ」といって拒否した。この結果、関東軍のロボットとみられていた林銑十郎が首相になり、その後は近衛文麿が首相になって、7月に盧溝橋事件が起こる。

このとき石原は日中戦争に反対したが、陸軍の中で孤立して左遷された。結果的には宇垣内閣の流産が、日中戦争の泥沼化する決定的瞬間だった。のちに彼は宇垣の組閣を妨害したことを「人生最大の失敗だった」と後悔したという。