憲法論
「できるかできないか考えないで原発ゼロにしよう」と主張した大野博人氏(外報部出身)に代わって、根本清樹氏が朝日新聞の論説主幹になった。政治部の本流といわれる根本氏になれば、少しは朝日もリアリズムになるかと期待したが、彼の署名で書かれたコラムは、お粗末というしかない。

彼は「明日の自由を守る若手弁護士の会」なる団体のクイズ「国民は憲法を守らないといけない。○か×か?」から説き起こす。正解は×だというのだが、これは間違いである。たとえば憲法30条は「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う」と定めているが、根本氏には納税の義務はないのだろうか。

たしかに憲法99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と定め、国民は含まれていないが、それは国民が憲法に違反してもいいという意味ではない。すべての法律は憲法に適合しなければならないのだから、その法律を守る国民は憲法を守らなければならない。これは自明の三段論法である。

本質的な理由は、カール・シュミットのいうように、主権者たる国民は憲法制定権力であり、それに従う客体ではないということだ。国民のつくった憲法を国民が守るのは当然で、それを改正するのも当然だ。これが立憲主義であり、「首相が改憲を訴えるのは立憲主義を傷つける」という根本氏は、立憲主義の意味を誤解している。
憲法制定権力の抱える矛盾

シュミットが憲法制定権力を憲法のコアとして強調したのは、ワイマール憲法への批判である。1919年にワイマールに集合した国民会議は、保守党から共産党に至るさまざまな党派の混合体であり、その結果としてできたのは党派の妥協による暫定憲法だった。

これに対してシュミットが理想とするフランス革命では、暴力革命によって国民主権が形成され、その主権者が国家権力を拘束することによって「国家において人民が支配し支配されるという意味で政治的な自己同一性が実現される」。このような自己同一性が国家を統一する立憲主義のコアなので、その主体である人民が「憲法を守らなくてもよい」などということはありえない。

ここでシュミットが批判しているのは、ケルゼンの実定法主義(法実証主義)である。ケルゼンの影響を受けてつくられたワイマール憲法では、その前提になる憲法制定権力は存在しないので、手続き的な整合性さえあればどんな憲法でもよく、時の政権が自由に変えてもよい。ここでは国家の統一性も法の正統性も失われてしまう。

ではその憲法制定権力の正統性を保証するのは何だろうか。シュミットによれば、主権者の根拠はルソーのいう「一般意志」に求められるというが、それが一般意志だという根拠はどこにあるのか。それは社会契約だとシュミットはいうが、社会契約としての国家の基礎にある一般意志の根拠が社会契約だというのは循環論法である。

シュミットもこれは認め、統治する者とされる者の自己同一性が実現する文化圏の中でしか主権者=憲法制定権力は存在しえないという。このような憲法は多数の人民が制定したという意味では民主的だが、多様な人々の意志を反映する自由主義ではない。そして彼は、『現代議会主義の精神史的地位』でこう書いた:
あらゆる現実の民主主義は、平等の者が平等に取り扱われるというだけではなく、平等でない者は平等には取り扱われないということに立脚している。すなわち、民主主義の本質をなすものは、第一に同質性ということであり、第二に――必要な場合には――異質なものの排除ないし絶滅ということである。
この「異質なものの排除ないし絶滅」による民主制を実現したのが、ヒトラーだった。この点で憲法制定権力を絶対化するシュミットの議論には問題があるが、それを否定するとケルゼンのニヒリズムになってしまう。近代の憲法は、このケルゼンの自由主義とシュミットの民主主義の矛盾をいまだに解決できないのだ。