「日本型学校主義」を超えて: 「教育改革」を問い直す (筑摩選書)
アゴラで中沢良平さんも書いているが、日本の学校は会社に適応する「兵士」をつくるシステムである。これは昔からの伝統ではなく、江戸時代には寺子屋による自由な教育が主流だった。公立学校を中心とする公教育制度ができたのは、明治初期の学制令によるものだ。

これは当時としては当然で、西洋諸国の侵略の脅威に瀕していた日本が生き延びるには、軍備を整えるとともに、軍隊の規律に従う人間を急いで養成する必要があった。そのための規律=訓練装置が学校である。そしてこうした制度の中で「優等生」になるのは、先生に忠実で規律を守り、場の空気を読んで「正解」を出せる生徒だ。
こうした家父長的な「日本型学校主義」が正社員を中心とする雇用慣行を生み、サラリーマンを理想とする文科省や日教組の教育が兵士を再生産する。職員会議には法的根拠もなく、すべて全会一致で多数決がとられることはない。教職員のコンセンサスを得ない校長の「独断」は許されない。

こういう「学校社会」は日本社会の縮図であり、そこから生み出されてくる兵士は、素直で勤勉だが、自分でリスクをとって仕事を作り出すことができない。それは一時まで日本の会社には都合のいい人間だったが、今は日本経済の衰退の原因になっている。

著者が強調するのは、教育は学習者に対するサービスだという考え方が、教師にも学校にも欠けているということだ。よく「日教組の偏向教育」が槍玉に上げられるが、戦後の教育基本法で「民主教育」を刷り込まれたのは労働組合だけではなく、教育委員会も競争をきらい、「戦後的な価値観」を子供に押しつける。

たしかに終戦直後は、教師の反省も含めて国家主義的な教育を改めて教育の独立性を守ることに重点が置かれたが、いつのまにか教育委員会は地方行政からも独立して労組と一体で平等主義を徹底してきた。大学の教育学部も左翼の最後の牙城になり、政府にも相手にされなくなった。

教育は21世紀の日本の「戦略産業」だが、この閉鎖社会を改革することは会社以上にむずかしい。市場の競争にさらされていないため、統制経済の思想が残っているからだ。著者は教育バウチャーなども提案しているが、労使ともにそういう改革は全面的に拒否する。大学も含めて、日本の教育産業の後進性は深刻だ。