伊藤隆氏は、司馬との対談で「私は昭和という時代はわかりません」と司馬がいうので、伊藤氏が「それでは歴史は語れないでしょう」というと、司馬が絶句して対談が流れてしまったという。彼自身がこう語っている。
以下が夢だったのかどうかは、わからない。ともかくも山を登り続けていて、不意に浅茅ヶ原に出てしまった。そこに巨大な青みの不定型なモノが横たわっている。君はなにかね、ときいてみると、驚いたことにその異胎は、声を発した。「日本の近代だ」というのである。

ただしそのモノがみずからを定義したのは、近代といっても、1905年以前のことではなく、また1945年以後ということでもない。その間の40年間のことだと明晰にいうのである。「おれを四十年と呼んでくれ」と、そのモノはいった。

日本史はその肉体も精神も、十分に美しい。ただ、途中、なにかの変異がおこって、遺伝学的な連続性をうしなうことがあるとすれば、「おれがそれだ」と、この異胎はいうのである(『この国のかたち』1、強調は引用者)。
「新しい歴史教科書をつくる会」の人々の自称する「自由主義史観」も、中身は司馬史観である。近代の日本は英雄の建設した立派な国だったが、一度だけ「変異」が起こったというこの史観は、伊藤氏もいうように、彼らの否定する「自虐史観」と同じく学問的には成り立たない「お話」にすぎない。
ある時期まで、司馬史観が唯物史観に対する「解毒剤」になったことは確かだ。日本の歴史学界のかつての主流だった講座派マルクス主義の「侵略史観」は、実際にはヨーロッパの植民地主義を日本に投影する「オリエンタリズム」の一種だった。

いま歴史学ではこんな図式で論文は書けないので、唯物史観は80年代に終わったが、司馬史観の大衆的な人気は今も高い。歴史上は何の役割も果たしていない(史料もほとんど残っていない)坂本龍馬の人気がこれほど高いのも、司馬のおかげだ。「つくる会」などの右派がこれを利用するのも、その大衆的な人気のゆえだろう。

しかし彼らの中心テーマである「四十年」について、司馬はまったく作品を残していない。辛うじて晩年に「統帥権が問題だ」という話をしていたが、これも当たり前の話だ。伊藤氏も指摘したように近代史は幕末から連続しており、「四十年」の愚行の原因は、司馬氏の賞賛した「明治の元勲」にあったのだ。

日露戦争以降の戦争がコントロールできなかった原因も、明治憲法に代表される「国のかたち」にあり、その原因は龍馬のような尊王思想だったが、人物にしか興味をもたない司馬は、それにも気づかなかった。この意味で、彼が「史観」というべきものをもっていたのかどうかも疑わしい。